最近、「面白そう」と思って観るTVドラマでも、何となく物足りない。
それなら本でも読もうと思うので、読みかけの本がなくなると、何となく心淋しく不安になる。活字中毒なのかも知れない。
そんなことを思いながら、書店で見つけたのが、この小川洋子さんの文庫『ことり』だった。
小川洋子さんの作品を読むのは、『博士の愛した数式』以来だ。
「小川洋子さんなら裏切らないだろう」と、何となく・・・衝動的と言えば衝動的な感じで手にした今回の読書。
読みだして「端正な、きれいな文章だなあ~」と思いながら、いつの間にか、小川ワールドに浸っていた。
内容は、「小鳥の小父さん」と呼ばれていた主人公が、死後数日経って遺体で発見されるところから物語は始まる。小父さんの腕の中には鳥籠があり、中には一羽の小鳥が止まり木にとまっていた。
その「小鳥の小父さん」と呼ばれた男の生涯を描いた物語だった。
小父さんには7歳上の兄がいた。11歳になったころ意味不明の言葉を喋り出し、周りの人達とはコミュニケーションがとれなくなった。
それは、小鳥たちの声を聴き、小鳥たちに思いを馳せ、兄が習得した鳥の世界の言葉だった。その兄の独自の言語を理解できるのは、弟の小父さんだけ。母親もなんとか理解しようとするが、それも叶わず、弟を介してかろうじて生活を続ける。
両親が他界したとき、兄は29歳、弟は22歳になっていた。
金属会社のゲストハウスの管理人として働く弟は兄を支え、その2人だけの生活を続けるが、世間や周りの人達との関係は必要最小限。
弟は昼の決まった時間にサンドイッチを買って家に戻り、留守番している兄は缶詰スープを湧かして待っている。兄弟は行きたい場所へ旅行する準備はするが、それはあくまでも仮想の旅行で遠くへ出かけることもない。特に兄は、幼稚園の鳥小屋の見学と、週一回の子供の時からの馴染みの青空商店に行って棒付きキャンディーを買う習慣だけの生活で、庭に訪れる鳥の声を聞き生活している。
物語には、シジュウガラ、コゲラ、ヒヨドリ、ツグミ、メジロ、十姉妹など、いろいろな野鳥が出てくる。その野鳥の鳴き声(歌)を聞き、兄弟は至福の時を過ごす。
そして時が過ぎ、兄は幼稚園の鳥小屋観察の定位置の金網に寄りかかった姿で52歳の生涯を終わる。弟は兄への想いを胸に、毎日、鳥小屋の掃除させてもらう。そして弟は、園児たちに「小鳥の小父さん」と呼ばれるようになる。
物語の後半は、その弟「小鳥の小父さん」の兄を想いながら管理人としての仕事を完璧にこなしながらの淡々とした日々の暮らし。鳥に関する本を借りるために通っていた図書館の若い女性司書に恋もするがそれも叶わず、近くで起こった幼児誘拐事件の容疑者と噂されて、兄が愛し続けた幼稚園の鳥小屋の掃除をすることも失う。
小父さんは60歳を過ぎてからも嘱託職員として仕事を続けていたが、金属加工会社がゲストハウスを手放すのを機会に退職。
原因不明の頭痛に悩まされながら、庭のバードテーブルに集まってくる小鳥の歌を聞き、歌を真似て時を過ごす。
そして、台風の日に窓にぶつかり傷ついた小鳥を入れた鳥籠を抱えて「小鳥の小父さん」の一生は終わる。
著者の小川洋子さんが「取り繕えない人達の物語」と言っているのを巻末の解説で知ったのだが、鳥の言葉しか話せない兄、その兄と暮らす不器用で正直な弟の「小鳥の小父さん」は、確かに世間の人間関係で「取り繕う」ことの出来ない2人。
「取り繕う」の意味は、「外見だけを飾って見た目をよくすること」「不都合なことを隠してごまかすこと」「その場しのぎの修繕」だが、生きていく中で、そんなこととは無関係に、ひたむきに、静かに、正直に、淡々と人生を過ごす姿に、心打たれる。
そんな、生きるとは何かを静かに問う物語だった。
以前読んだ『博士の愛した数式』が、妻の本棚に眠っている。『ことり』を読み終わった今、なぜか再読してみたくなった。