文庫・笹本稜平著『春を背負って』

 先日、新幹線に乗る前に寄った駅ナカの書店で、「春を背負って」というタイトルに惹かれて買った文庫本。
            
 奥秩父の山小屋を舞台に、その小屋の若い経営者、それをサポートする父親の友人、そこに訪れる人々、その人間模様が感動的に描かれた山岳短編小説集だ。
 読みながら、忘れていた若い時に山歩きした自然の香りと、さらに山登りの身体的感覚を思い出させてくれる内容だった。
 この小説は映画化され、6月に公開予定だそうだ。
 そのために、文庫の巻末には著者の笹本氏と映画監督の木村大作氏の特別対談が掲載されている。
 その中で、笹本氏はこの小説についてこのような事を語っている。
 ─ 猜疑心や打算で人と付き合うのも、確かに人間のひとつの本質かもしれないけど、逆に、あるがままの相手を打算なしに受け入れることができるところも人間の本質だと思うんですね。どちらも小説の題材になりうるんですが、『春を背負って』では後者、下界での暮らしでは忘れちゃっている本質、「人間っていいものだよ」という人が本来持っている善性の部分が、自分なりに書けたという実感は持っています。 ─
 確かに、それぞれが抱える人生の重みと、それへの葛藤、そして人が本来持っている善性の部分が見事に書かれている。
 例えば、さりげない会話の中で「人間て、誰かのために生きようと思ったとき、本当に幸せになれるものなのかもしれないね。そう考えると、幸福の種子はそこにもここにもいくらでもあるのかもしれないね」と、こんな言葉を投げかけている。
 この小説のモチーフが、映画でどう映像化されているのか、興味と期待が湧く。
            
 何と言っても監督は『劒岳 点の記』の木村大作氏だし、松山ケンイチ蒼井優豊川悦司などの演技も興味津々だ。
     
◇ちょっと蛇足になるが、山登りの思い出
 若い時分、僕も妻も山登りを趣味の一つにしていた。
 何人かのグループで、新宿発の夜行列車に乗ったことを思い出す。
 冬山とまではいかなかったが、春から秋にかけて、谷川岳大菩薩峠に時々出掛けていた。
 実は、もう40年ほど昔になるが、安月給の僕たちは上高地と奥穂高登山が新婚旅行先だった。
 秋も深まった10月の上旬、上高地を出発して涸沢の見事な紅葉を見ながら、奥穂高の山小屋を目指していたら、その年初めての雪に見舞われた。
 何とか穂高岳山荘まで辿り着いたが、そこで2日間の足止め。冬山の経験がない僕たちの下山に同行してくれたのが若い名古屋のカメラマンだった。
 彼のお陰で無事に上高地まで下りてこられて、ほんとうに助かった。
 もう一つ、山登りで記憶に残っているのは、春先の谷川岳での出来事だ。
 僕たちは、右手に雪渓が残る沢を登る登山者を見ながら尾根を登っていた。
 突然、雪渓に黒い穴が現れ、そこの周りで登山者が慌てふためいているのが確認できた。グループの仲間が落ちたのだ。
 麓の林道入口に戻ると、救助隊が出発するところだった。
 手をかして欲しいと声がかかって、僕たちも救助隊に加わって事故現場にいって、ソリに乗せられ毛布に包まれた遺体を麓まで引き下ろすのを手伝った。
 後日、遺族の方からお礼の葉書をいただいて、ライバル同業の某大手電気会社の社員だったというのを知った。