「・・させていただく」という意識

◇僕が以前から注目している哲学者の一人に内山節氏がいる。
 内山氏は、現在は某大学の教授であるが、高校卒業後、大学などの高等教育機関を経ることなく、書籍などで自らの思想を発表しながら活動する哲学者として知られている。
 そして、東京に住んでいながら、群馬県上野村にも住居をもち畑を耕したりしている。
 15年ほど前に都内でヤマギシズム学園生の〝農の学び〟の写真展『農が好きだ』を開催したときに、ある人が「このような考え方を内山さんなら理解するだろう」と言ってくれて、内山氏の講演会に声をかけてくれて紹介され、短時間だが初めて会話を交わした。謙虚さが話し方や仕草からにじみ出ているような方で、俗に言う学者といった風貌や少なからず感じる威圧的なものなど微塵もなく驚いたのを記憶している。
 そんな哲学者・内山氏の論ずる「労働論」や「自然論」に、僕は少なからず影響を受けているし、内山氏が主宰している「森づくりフォーラム」の会員にもなっている。
 その内山節氏が、東京新聞の「時代を読む」という欄に、「自然に対する傲慢を問う」と題して、原発事故にもかかわらず、あいまいな政府の態度と原発推進の問題を執筆していた。
          


◇その中で内山氏は言う。
 『考えてみれば私たちは、自然から借りた土地の上で暮らしている。せめてこの意識だけでも残っていれば、貸してくれた自然への感謝の思いくらいは、もつことができたはずである。・・・』
 『かつての日本の社会では「何々させていただいている」という言葉がよく用いられた。「どこどこにお店を出させていただいている」とか。自分がしている、ではなく、いろいろな助けをいただきながら、させていただいているという気持ちが、どこかにあったのである。この表現を使えば。私たちは自然に土地を貸してもらって、暮らさせていただいているのである。・・・』
 内山氏は、人間が生きていく上で否定できない自然の簒奪(さんだつ)していく行為を、どう考えたらいいのか。『おそらく今日の最大の問題点は、人間のこの重い問いをもちながら、いきていなければいけないということを、人間自身が忘れてしまったことにあるのだろう。』と述べている。


◇実は、日曜日夜にTVを見ていたら『情熱大陸』という番組の中で、今回横綱になったモンゴル出身の日馬富士が「この体も、この力も、みんな神様から借りているものだから、いつかお返しするときまで、全身全霊、生きることです。」というような言葉を言っていたのを思い出した。
 僕の知っているモンゴルの青年も「草原で、馬に乗って風を感じ、自然の中にいる時が、一番幸せを感じる」と言っていた。
 モンゴルの諺には、自然に対して謙虚にならなければならない人間の在り方を表したものが多いと聞くし、あの厳寒の自然環境の中では、人間の力など微々たるものであるのを育ちの中で身についているのだろう。
 そんなモンゴルの彼らの心には、内山氏が言う『自分たちを支えてくれている自然や他者に対する感謝が、人々の気持ちの中にあった。自然は大恩ある自然だった。』という感覚が、今でも息づいているのだろうと思った。
 だから、ヤマギシズムの「自然と人為の調和」という考え方に、彼らの琴線は響くのだろう。
 モンゴルの大地は、自然が主役である。
       

 モンゴルの若者は相撲が大好きだ。