次の社会設計に求められる考え方の確立

◇僕は時々、新聞を広げて興味ある記事があるのに、じっくり読む時間がないときには、そのページだけ抜き取ったり、切り取ったりしておく。
 ここに記しておきたい記事も、その中の一つで、先ほど読んだものだ。
 先週の東京新聞夕刊の文化欄に、哲学者の鷲田清一さんが東日本大震災から三年、すでにその記憶の風化を憂う声が聞こえる。が、それは何の風化を憂う声なのか。」という書き出だしで『制御不能なもので成り立つ日常 ─ 迫られる社会の再設計』というタイトルで論じていた。
           
 鷲田さんは、ここで『 わたしたちの日々の暮らしが、「原発」という制御不能なものの上に成り立ってきたということ、このことをわたしたちは今回の震災で思い知った。そしてそれへの対応のなかでもう一つ、制御不能なものとして浮上しているのが、グローバル資本主義である。 』 と述べ、国境を越えた世界市場での熾烈なマネー・ゲームを憂い、〝世を治め民を救う〟という「経世済民」の意味する「経済」を取り戻して 『 わたしたちは、自然や人的資源とも折り合いながら、制御可能な、ということはみずからの判断で修正や停止が可能な・・ 』 そういうスケールの社会を再設計してゆかなければならないと言っている。


◇最近、いろいろな識者が社会の再構築を論じているが、その問題点がグローバル化しすぎた市場経済であり、それからの脱社会だという点で共通しているのが目立つ。
 哲学者の内山節さんは「新たな多数派の思想の形成をめざす100人委員会」の趣意書の中で、次のようなことを言っているのを、先日、ネットで見つけた。
 それは『これまでの延長線上に未来はない』と題したもので、
 『 ・・・現代世界は自然と人間の等身大の世界にこそ大事なものがあるのだということを忘れてきました。すべてが商品化され、ついには貨幣が駆けめぐりながら貨幣を増殖していくなかに経済が展開する時代が生まれました。私たちはその破綻から何を導き出したらよいのでしょうか。等身大の世界に戻る。等身大の世界をつなぐ。そのことによって生命の活動が感じられる世界をつくりなおす。私たちはこのことから出発し直さなければならないような気がします。自然の力、人々の労働の力、地域の力、そしてそれらが結びあうとき生まれる力。ここにこそ私たちの社会がつくられていると実感できる等身大の世界を創ることが、私たちの課題になっているのです。』


◇前にも里山資本主義』という新書について、このブログに書いた。
 すべてが商品化された「マネー資本主義」から、お金が機能しなくても水と食料と燃料(エネルギー)を手にし続けられる、お金に依存しないサブシステムとしての「里山資本主義」という考え方の提唱だった。
 社会システムの転換期。
 次にくる社会というか、次に求められている社会として、ヤマギシズムを知った僕たちが試行錯誤し試み、実践しようとしている社会 ─ お金を介在しない社会づくりの具現方式 ─ の確立が、ますます求められている時代なのだと思う。