8月18日・雑誌『文藝春秋』読んでのおしゃべり

 今日は、朝から雨。それも午前中は強い雨脚の土砂降り。
 しかし、午後には雨が止んで、急に青空になって強い陽射し。何となく「残暑」って感じがしてきた。

 午後3時の空。

    

 夕方6時半の空。

    

 

 一昨日は、埼玉県のヤマギシの村・岡部実顕地に出張だった。暑かった。猛暑(僕のスマホは37℃表示)の深谷市だった。
 昨日と今日は、どこにも出掛けないで事務所で事務整理をしたり、いま、岡部実顕地で開催中の1週間の合宿セミナー「特講」に送り出した各地の人と連絡を取ったり、そして、読書をしたり・・・。そんな時間に費やす。
 
◇雑誌『文藝春秋』9月号
 今回発売の文藝春秋は、先日発表があった「芥川賞」が載っていることと、『ぼけますから、よろしくお願いします。』でTVドキュメンタリーや映画で一躍有名になった知人のプロデューサー・信友さんの親子対談が載っているのを知って、一昨日の出張帰りに書店に寄って買ってきた。

    

 今回の『文藝春秋』読み応えがあった。

    

 早速、読んだのが芥川賞受賞作品。

    

 高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』は、ラベル・パッケージ会社の埼玉支店を舞台とした、そこで働く若手社員の三角関係を描きながら、それぞれの人間性、考え方、生き方、生活様式の多様性を浮き彫りにして、そこでの日常的な人付き合いの葛藤や、可愛がられる人とそうでない人の職場での理不尽や、同僚同士の静かな憎悪などを描いて、現代若者が抱いている人間関係の割り切れなさを書いた作品だった。
 鋭い心情描写に「いまの若い人はこんな感じなのか? なるほど・・」と思いながら読んだ。

    

 知人のプロデューサー・信友さんは、『98歳、筋トレ始めました』と題して、今年の11月に102歳になるお父さんと、老老介護だった両親の夫婦愛や、お父さんの生き方や、一人娘の信友さんへの愛情などを、信友さんが父親から聞き出す内容の対談だった。
 早速、信友さんに「いい内容だったよ、・・・」と感想をラインで送る。

 この2つが購入の動機だったのだが、それ以外にも
 『安倍元首相暗殺と統一教会の緊急特集も載っていて、詳細は書かないが読み応え満載だったし、
 『日本人難民を北朝鮮から救った「神様」』では、戦後の77年前、ソ連軍の侵攻で朝鮮半島に取り残された70万人の在留邦人の帰還に、命を懸けて奔走した「松村義士男(まつむらぎしお)という人物を描いていた。こんな人物がいたのかと驚く。


 もうひとつ、僕が興味を持って読んだのが、先日読んで感動した『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマを刊行した堀川惠子さんの自衛隊OBは告発する』と題した自衛隊員達の任務の実態について─ 同情したくなるほどの地震津波原発事故など災害地派遣での過酷な救援活動、鳥インフルエンザや豚コレラや牛の口蹄疫での大量殺処分、行方不明者捜査、さらに雪祭りなどなど─ 自衛隊員の活躍と、それに伴う心理的苦痛の実態。さらには政府や政治家(特に地元優先する議員)の非合理な派遣命令や派遣要請に翻弄される様子を、幹部OB達が訴えている。

猛暑のなか、セミが大合唱だ

 先週末の土曜日には、日本列島近くで発生した台風で、時折、大雨。
 今日はまた猛暑が戻ってきて、事務所前の歩道の並木にもセミが止まって、大合唱だ。

    

 1本の樹に何匹も止まって鳴いている。

    

    

 我が家のファーム町田店の「なかよし花壇」の花も満開だ。

    

    

 住宅街をちょっと離れた畑の土手にある柿の実も、だいぶ大きくなっている。

    

 今日の夕方の空は、何となく秋っぽい。

    

 「いつまで暑いのかなあ~」と、今朝、呟いていた人がいたが、今日は15日だ。お盆の中日も過ぎて、これからは晩夏へ向かって時は流れる。

 

 明日も猛暑の予報。

 いま、夏の1週間の合宿セミナー「特講」が、埼玉県のヤマギシの村・岡部実顕地で開催中だ。
 土曜日からスタートだったので、台風上陸とぶつかって心配したが、一人も欠けることなくスタートできて、明日は中間日。
 そんなことで、明日は岡部に出張して、今回の「特講」の様子を聴きたいと思っている。

今日は座間市の「ひまわり畑」に行く

 今週の月曜日には、1万本が咲いている「町田のひまわり畑」に行ったが、今日はその5倍以上の55万本といわれている「座間のひまわり畑」に行ってみた。

               

 
 今日は木曜日でファーム町田店はお休み。
 タケイ夫妻とミドリさんとミッコちゃん親子と僕の6人で、我が家から車で1時間弱の座間市のへ。
 僕は、ここ座間市の「ひまわり畑」には5年前にも一度来たことがある。
 今年は、コロナ禍のために中止されていた「ひまわりまつり」が3年ぶりに復活したという。
 今日は山の日休日とあって、河川敷の駐車場にも車がいっぱいだった。
 駐車場から10分ほど歩くと、見事に咲き誇っている「ひまわり畑」。

               

              

              

              

             

              

   強い陽射しには、やっぱり、太陽に向かって元気に咲く「ひまわり」が似合う。

             

             

              


 

真木悠介著『 気流の鳴る音 』を読んでいる

 先月末の朝日新聞夕刊に、今春、亡くなった真木悠介の『気流に鳴る音』が紹介されていた。
 真木悠介は東大名誉教授でもある社会学者の見田宗介ヤマギシ会にもコミューン構想ということから関心を寄せて、ヤマギシ会の1週間の特別講習研鑽会(特講)にも参加している。
 僕は昔、思想の科学だったか、鶴見和子関連の催しだったかで、一度だけ言葉を交わしたこともある。
 そんなことで、この記事をじっくり読んだ。

               

               

   この新聞を机の上に置いておいたら、それを妻も読んだらしく「『気流の鳴る音』って、うちにない?」と言う。昔、読んだことがあるかも知れないが、僕の本棚にはないし、内容も記憶していない。しかし、新聞の内容で気になっていたことがあって、僕も読んでみたいと思っていた。


 特に僕が新聞を読んで気になったのは、
 ─ 真木は、富や地位を巡って人々が競い、争う「相剋性(そうこくせい)」が支配的な現代社会から、お互いの存在自体が生きる歓びの源となる「相乗性」を基軸とする社会への移行を提唱した。─と、書かれていた部分である。


 いつも行く書店にも在庫はない。ブックオフを覗いたがない。結局、メルカリに出品されていたのを入手。
 それが、昨日届いたので、早速読み出す。

               

 冒頭の『 序「共同体」のかなたへ ─コミューン構想のための比較社会学・序説─ 』だけしかまだ読んでないが、そこでヤマギシ会について書かれているので、備忘録的にここに記しておきたいと思う。

 真木はヤマギシ会について
─ 学生のころ「ユートピアの会」という研究会で、山岸会という団体の人を招いて話をきいたことがある。私が興味をもったのは、この団体では労働が強制されないというこ であった。社会的な必要労働をどのように配分するかということは、未来を構想するときの基礎的なネックの一つだ。近代市民社会=資本制社会のように、「飢えの鞭」=生活の必要性をとおしてこれを特定の階級に強制するのか、中国の社会主義のように「人民への奉仕」といった道義的規範意識をテコとするのか、あるいはソ連社会主義のように、利潤動機と名誉心、権力による強制とイデオロギー規範意識等々を組合わせて動員するのか。しかし労働が自発的になされる他は強制されないという世界は、マルクスの終極的なユートピアとしてイメージはもっていたものの、具体的なかたちとしては当時の私の想像をこえるものであった。

 真木は、10年ほど後にヤマギシ会の「特講」に参加するのだけど、「強制なき労働」のシステムが存在するのかどうかは分からなかったと書きながら、
─ むしろこのとき私が中で体感したことは、私がばかばかしい反面だと思っていた、人間と自然との連動性のようなものの方にこそ、事の本質があるのだということだった。人間の共同性とニワトリの共同性とを、それぞれ抽象してとりだしてきて、二変数の関数関係のようにげんみつな因果連関があるわけではない。しかし人間の自然にたいする感触が、他の人間への対応の中に反映し、このような人と人との関係が逆に自然を取扱う仕方にあらわれ、それが植物の育ち方とか動物の相互関係のうちに反映し、それがふたたび人と人との関係を形成している、そのような連動関係が幾重にも存在すること。─ と書いている。

 そして真木は、
─ 労働が強制されない社会が実在するか否か、私は今でもしらない。しかしもしそのような社会が存在しうるとすれば、すなわち労働がそれ自体よろこびとして、マルクスが 書いているように、人間生命の発現としてありうるとすれば、そこでは必ず、人間と人 間との関係のみでなく、人間と自然との関係が根本から変わらねばならないだろう。あ るいは人間の存在感覚のようなものが、市民社会の人間とは異った次元を獲得しなけれ ばならないだろう。/われわれの社会構想がラディカルであろうとすれば、それは社会のシステムの構想のみで完結することはできない。コミューン論は、人間と人間との関係のあり方を問うばかりでなく、自然論、宇宙論存在論をその中に包括しなければならない。─ と述べている。

 真木はさらに、ヤマギシ会と、奈良にある地域共同社会である「大倭紫陽花邑(おおやまとあじさいむら」を比較し考察している。
 1969年にヤマギシ会の別海実顕地に滞在したときの写真集『ぼくは太陽の子どもだった』を出している野本三吉(加藤彰彦・横浜市立大学名誉教授、前沖縄大学学長)が、紫陽花邑は〈感覚〉であり、ヤマギシ会は〈話合い〉と区分認識していたことを紹介し、
─ この〈話合い〉と〈感覚〉という、共同性の存立の二つの様式、二つの契機の問題は、われわれのコミ ューン構想にとって、最も深い地層にまでその根を達する困難な問題をつきつけてくる。 ─ として、
─ 山岸会では〈ニギリメシとモチ〉ということをよく言う。ニギリメシでは、一粒一粒の米粒は独立したままで集合しているにすぎないのに対し、モチでは米粒そのものが融解して一体のものとなっている。 他のさまざまな「共同体」では、ニギリメシの如く、「我執」(エゴ)をもったまま個人が連合しているだけなので相剋や矛盾を含むが、研鑽をとおしてエゴそのものを抜いている山岸会においては、モチの如くに矛盾もなく相剋もない「一体社会」を実現するという旨である。
─ 他方「紫陽花」という命名の趣旨は、あたかも紫陽花がその花の一つ一つを花開か せることをとおして、その彩りの変化のうちに花房としての美をみせるように邑に住む 者のひとりひとりが、それぞれの人となりに従って花開くことをとおして、おのずから 集合としてのかがやきをも発揮しようとするものである。─ と比較し、
─ 二つの集団の自己規定は対照的だ。すなわち集団としてのあり方を性格づけるにあたって、山岸会では一体性を、紫陽花邑では多様性をまずみずからの心として置く。/しかもこのことは、先にみてきた〈話合い〉-〈感覚〉という、共同性の存立方式における対比と、逆立しているようにみえる。〈感覚でスッと通じる〉ということの方が、個我相互間の、ある直接的な通底を前提するのにたいして、〈話合い〉による「公意」への参画という、媒介された共同性の形成の仕方においては、より多く個々の成員の「多様性」を前提もし、またこれを再生産もするように考えられる。─ と考察し、
─ 極限的な共同性(モチ!)をその理念とする集団が、まさにそれ故に、その現実の運動において、諸個体の個性をより敏感に前提する方式をえらび、多様に開花する個体性 (あじさい!)をその心とする集団が、まさにそのことにおいてある共同性を直接に在立せしめてしまう。あらゆるコミューンの実践にとって最も根本的な問題--人間の個体性と共同性の弁証法の問題が、この逆説のうちに鋭く提起されている。─ と述べる。

 さらに、ヤマギシ会の「一体」については、
─ 山岸会の「一体社会」において、諸個人の個性感覚や欲望や能力の差異は抹消するわけではないし、したがって相剋や矛盾ということも、事実抹消するわけではない。もしこれらが完全に抹消しているとすれば「研鑽」は入口ですみ、以後は技術的な打合わせ以外には必要ないはずである。しかし現実の山岸会は、「モチ」をその理念として志向する悠揚たる永久革命である。これは山岸会の限界ではなく、逆にその可能性である。山岸会を全体主義から区別するのは、「無固定前進」「零位に立つ」というラディカリズムである。それはあらかじめ枠付けられた観念のうちに諸個人を封じ込む全体性でなく、逆に諸個人の事実ある多様性を素材として総意をねりあげてゆく装置である。しかしこのラディカリズムを現実に保証するのは、たえず矛盾をその内部から提起する個性の多様性であり、これが同質化してしまう度に応じて、「無固定」も 「前進」もその内容を失って凝固してしまうだろう。モチはあくまでも絵にかいたモチであることに、山岸会の活力はある。─ と記述している。

 

 僕はいま、読み返し読み返し、そして咀嚼しながら、これらの考察に感動し考え続けている。

町田にも「ひまわり畑」があった

 今朝、「ひまわりが見ごろよ」と妻が言う。
 その何分か後、テレビのニュースを見ながら「どうして、ウクライナとひまわりが結びつくのかなあ~」と言うと、「映画に出てくるひまわり畑が、ウクライナで撮影されたからよ」と妻は言う。
 妻は、デイサービスに来ているお婆ちゃん達と「町田のひまわり畑」を見に行くらしい。
 町田にも、そんな「ひまわり畑」があるのかと、僕も見てみたい思って場所を聞き、ファーム町田店の開店準備が一段落した後に行ってみた。

    

 場所は、わが家と東名高速横浜町田インター」のちょうど中間の金森という所。
 住宅街に囲まれた個人農家の畑。1万本と言われる「ひまわり」が見事に咲いていた。

    

    

    

    

 僕以外にも、親子連れが数組、写真を撮ったり、ひまわり畑の畝に入ったり遊んでいた。

    

    

 

 ついでに書くが、
 先日、町田の市民団体が映画『ひまわり』を上映したので観に行った。
 この映画、ロシアのウクライナ侵攻以降、話題になっている。
 昔、観た記憶はあるがストリーはほとんど覚えていない。残っているのは、広大な「ひまわり畑」のイメージだけだ。

        

 この映画、超話題になったので内容はみんな知っていると思うが、先日、改めて観たので、ストーリーにちょっと触れる。
 1970年のイタリア映画だ。
 第二次大戦中のイタリア。ナポリの海岸で出会い恋に落ちた若者。
 アフリカ戦線行きを控えた兵士だった彼の出征を遅らせようと結婚する。さらに、戦地へ向かわせたくない彼女は彼が精神状態がおかしくなったと精神病院へ入院させる。
 しかし、それが偽りであったことが発覚し、彼は同盟国ドイツがソ連と闘っている、最も過酷なロシア戦線に送られる。
 やがて戦争が終わっても、待ちに待つ彼は戻ってこない。ロシア戦線で一緒だったという兵士は、最後に彼が雪の中で倒れて見捨てたと語るが、彼の死を諦めきれず、ひとりソ連の地へ向う。
 彼の写真をもとに各地を訪ねてやっと探し当てると、なんとロシア女性と結婚し、子供までいる彼の存在を知るが、会わずにイタリアに戻る。
 イタリアで失意の日々を送る彼女のもとに、彼女が探し求めてソ連まで来たことを知った彼は、イタリアまで会いにくる。
 再会を果たした2人だが、彼女にも新しい夫との間に子供ををもうけていて、時の流れによる互いの別離を確信した彼はソ連へ戻る。
 そんな、戦争に引き裂かれた2人と、戦争がもたらす悲劇、時の流れの残酷さを描いたストーリー。

   
 改めて映画を観たが、数えきれないほどの戦争犠牲者が眠っているといわれる広大なひまわり畑や、延々と丘に続く墓標が、2人と悲劇のバックグランドとなって胸が痛む内容だった。

いま必要なのは「ネガティブ・ケイパビリティ」(作家・帚木蓬生さん)

 先週、帚木蓬生の本をよく読んでいることを知っているミキコちゃんから「帚木蓬生さんのネガティブ・ケイパビリティという本、持ってますか?」とラインが届いた。


 確かに、精神科医であり作家でもある帚木蓬生は、僕の好きな作家の一人である。
 新田次郎文学賞『水神』吉川英治文学賞『守教』を始め、『国銅』、『天に星 地に花』、『襲来』など、読んだときの感動が今でも甦る小説が何冊かある。
 しかし、小説以外の著書は読んだことがない。


 このネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に絶える力』は、どんな本なのだろうと、書店で手に取りページをめくって立ち読みしてみたら、「なんだ、これは?」と惹きつけられる内容。早速、読んでみた。

               

 精神科医でもあり作家の帚木さんは、──いま、現代人に最も必要と考えるのは「寛容」と「共感する」こと、それらが成熟する過程で大切なことは、容易に答えの出ない事態に耐えうる能力(ネガティブ・ケイパビリティ)である──と提唱する。

 帚木さんは、現代社会が求め、いつも人々が念頭に置いて必死に求めているのはポジティブ・ケイバビリテだが、ここには大きな落とし穴があり、「分かった」つもりの理解が、ごく低い次元にとどまってしまい、より高い次元まで発展しない。表層の「問題」のみをとらえて、深層にある本当の問題は浮上せず、取り逃してしまうという。
 「しかし私たちの人生や社会は、どうにも変えられない、とりつくすべもない事柄に満ち満ちています。むしろそのほうが分かりやすかったり処理しやすい事象よりも多いのではないでしょうか。 だからこそ、ネガティブ・ケイパビリティが重要になってくるのです」と指摘する。
 さらに、人間の脳には「分かろう」とする性質があるため、ネガティブ・ケイパビリティをもつことは難しい。しかし、安易に「分かろう」とする姿勢をやめ「ネガティブ・ケイパビリティを通して、発展的な深い理解をめざすことが重要となる」と力説する。

 特にそれは現代社会の営みの中で、終末期医療の現場や精神科医の診療だけでなく、私たちの日常生活、学校などの創作活動や教育現場でも「いま、求められる」と、「ネガティブ・ケイパビリティの大切さ」を提唱している。
 そんな内容の、何か、大切な生き方を示唆することを含んだ本だった。

 また、この本は帚木蓬生さんの精神科医としての、作家としての「原点」を感じさせる内容であり、「どうして帚木蓬生という作家は、このような作品を描けるのだろうか」と常々疑問に思っていたのだが、それを、ちょっと何かが見える気分になった著書だった。(むろん、帚木がいうように早計に分かったとしないで・・・)。

7月31日・暑い暑い猛暑の今日のおしゃべり

 7月も今日で終わり。本格的な夏の訪れを感じさせる日曜日だった。
 先月末に梅雨明け宣言があったのに、その後、梅雨末期のような大雨が時折降ったり、猛暑なのにジメジメと湿度の高い日が続いたり、異常気象の7月だった。
 今日は朝から気温も高く猛暑。今年一番の暑さだった。
 

◇猛暑の今日のPhoto 
 昼近くに屋上に上がってみたら、「夏本番」の夏雲が・・・。

               

               

 お隣の玄関の先のハイビスカスが・・・。

               

 出掛けたついでに薬師池公園に寄ってみたら、ハスの花が・・・。

               

               

 薬師池公園内の「野草苑」には、こんな珍しい「ぬばたま」という花が・・・。

               

               

 ファーム町田店の駐車場脇の「なかよし花壇」の6月に定植した花々も・・・。

               

               

               

 

北方謙三著『チンギス紀 萬里(ばんり)』を読む
 ユーラシア大陸に拡がる人類史上最大の帝国を築いたチンギス・ハーンの生涯を描く北方謙三さんの「 チンギス紀 」シリーズの14巻目『 チンギス紀(十四) 萬里』が書店に並んだことを新聞広告で知った。
 僕は第一巻から読み続けているので、早速、読む。

               

 モンゴル族の一氏族・キャット氏の長だったテムジン(後のチンギス・ハーン)が、同じモンゴル族の各氏族との戦いに勝利し、モンゴル族全体の長となり、さらにユーラシア大陸の偉大な覇者となる物語なのだが、戦いの舞台はいよいよ西へ。
 この十四巻では、中央アジアからイラン高原に至る広大な領域を支配しているホラズム・シャー朝との戦いが開始された。
 一説によると「世界史上、最も凄惨な戦い」とまで言われる1219年~1222年にかけて行われたモンゴル帝国のホラズム・シャー朝征服。
 いま、ロシアの侵攻を受けているウクライナを舞台としたモンゴル軍の首都キエフ征服は1240年だから、時代は近づいている。
 そんなことを思いながら、何とも言えぬ心の痛みを感じつつ読み終わった。