真木悠介著『 気流の鳴る音 』を読んでいる

 先月末の朝日新聞夕刊に、今春、亡くなった真木悠介の『気流に鳴る音』が紹介されていた。
 真木悠介は東大名誉教授でもある社会学者の見田宗介ヤマギシ会にもコミューン構想ということから関心を寄せて、ヤマギシ会の1週間の特別講習研鑽会(特講)にも参加している。
 僕は昔、思想の科学だったか、鶴見和子関連の催しだったかで、一度だけ言葉を交わしたこともある。
 そんなことで、この記事をじっくり読んだ。

               

               

   この新聞を机の上に置いておいたら、それを妻も読んだらしく「『気流の鳴る音』って、うちにない?」と言う。昔、読んだことがあるかも知れないが、僕の本棚にはないし、内容も記憶していない。しかし、新聞の内容で気になっていたことがあって、僕も読んでみたいと思っていた。


 特に僕が新聞を読んで気になったのは、
 ─ 真木は、富や地位を巡って人々が競い、争う「相剋性(そうこくせい)」が支配的な現代社会から、お互いの存在自体が生きる歓びの源となる「相乗性」を基軸とする社会への移行を提唱した。─と、書かれていた部分である。


 いつも行く書店にも在庫はない。ブックオフを覗いたがない。結局、メルカリに出品されていたのを入手。
 それが、昨日届いたので、早速読み出す。

               

 冒頭の『 序「共同体」のかなたへ ─コミューン構想のための比較社会学・序説─ 』だけしかまだ読んでないが、そこでヤマギシ会について書かれているので、備忘録的にここに記しておきたいと思う。

 真木はヤマギシ会について
─ 学生のころ「ユートピアの会」という研究会で、山岸会という団体の人を招いて話をきいたことがある。私が興味をもったのは、この団体では労働が強制されないというこ であった。社会的な必要労働をどのように配分するかということは、未来を構想するときの基礎的なネックの一つだ。近代市民社会=資本制社会のように、「飢えの鞭」=生活の必要性をとおしてこれを特定の階級に強制するのか、中国の社会主義のように「人民への奉仕」といった道義的規範意識をテコとするのか、あるいはソ連社会主義のように、利潤動機と名誉心、権力による強制とイデオロギー規範意識等々を組合わせて動員するのか。しかし労働が自発的になされる他は強制されないという世界は、マルクスの終極的なユートピアとしてイメージはもっていたものの、具体的なかたちとしては当時の私の想像をこえるものであった。

 真木は、10年ほど後にヤマギシ会の「特講」に参加するのだけど、「強制なき労働」のシステムが存在するのかどうかは分からなかったと書きながら、
─ むしろこのとき私が中で体感したことは、私がばかばかしい反面だと思っていた、人間と自然との連動性のようなものの方にこそ、事の本質があるのだということだった。人間の共同性とニワトリの共同性とを、それぞれ抽象してとりだしてきて、二変数の関数関係のようにげんみつな因果連関があるわけではない。しかし人間の自然にたいする感触が、他の人間への対応の中に反映し、このような人と人との関係が逆に自然を取扱う仕方にあらわれ、それが植物の育ち方とか動物の相互関係のうちに反映し、それがふたたび人と人との関係を形成している、そのような連動関係が幾重にも存在すること。─ と書いている。

 そして真木は、
─ 労働が強制されない社会が実在するか否か、私は今でもしらない。しかしもしそのような社会が存在しうるとすれば、すなわち労働がそれ自体よろこびとして、マルクスが 書いているように、人間生命の発現としてありうるとすれば、そこでは必ず、人間と人 間との関係のみでなく、人間と自然との関係が根本から変わらねばならないだろう。あ るいは人間の存在感覚のようなものが、市民社会の人間とは異った次元を獲得しなけれ ばならないだろう。/われわれの社会構想がラディカルであろうとすれば、それは社会のシステムの構想のみで完結することはできない。コミューン論は、人間と人間との関係のあり方を問うばかりでなく、自然論、宇宙論存在論をその中に包括しなければならない。─ と述べている。

 真木はさらに、ヤマギシ会と、奈良にある地域共同社会である「大倭紫陽花邑(おおやまとあじさいむら」を比較し考察している。
 1969年にヤマギシ会の別海実顕地に滞在したときの写真集『ぼくは太陽の子どもだった』を出している野本三吉(加藤彰彦・横浜市立大学名誉教授、前沖縄大学学長)が、紫陽花邑は〈感覚〉であり、ヤマギシ会は〈話合い〉と区分認識していたことを紹介し、
─ この〈話合い〉と〈感覚〉という、共同性の存立の二つの様式、二つの契機の問題は、われわれのコミ ューン構想にとって、最も深い地層にまでその根を達する困難な問題をつきつけてくる。 ─ として、
─ 山岸会では〈ニギリメシとモチ〉ということをよく言う。ニギリメシでは、一粒一粒の米粒は独立したままで集合しているにすぎないのに対し、モチでは米粒そのものが融解して一体のものとなっている。 他のさまざまな「共同体」では、ニギリメシの如く、「我執」(エゴ)をもったまま個人が連合しているだけなので相剋や矛盾を含むが、研鑽をとおしてエゴそのものを抜いている山岸会においては、モチの如くに矛盾もなく相剋もない「一体社会」を実現するという旨である。
─ 他方「紫陽花」という命名の趣旨は、あたかも紫陽花がその花の一つ一つを花開か せることをとおして、その彩りの変化のうちに花房としての美をみせるように邑に住む 者のひとりひとりが、それぞれの人となりに従って花開くことをとおして、おのずから 集合としてのかがやきをも発揮しようとするものである。─ と比較し、
─ 二つの集団の自己規定は対照的だ。すなわち集団としてのあり方を性格づけるにあたって、山岸会では一体性を、紫陽花邑では多様性をまずみずからの心として置く。/しかもこのことは、先にみてきた〈話合い〉-〈感覚〉という、共同性の存立方式における対比と、逆立しているようにみえる。〈感覚でスッと通じる〉ということの方が、個我相互間の、ある直接的な通底を前提するのにたいして、〈話合い〉による「公意」への参画という、媒介された共同性の形成の仕方においては、より多く個々の成員の「多様性」を前提もし、またこれを再生産もするように考えられる。─ と考察し、
─ 極限的な共同性(モチ!)をその理念とする集団が、まさにそれ故に、その現実の運動において、諸個体の個性をより敏感に前提する方式をえらび、多様に開花する個体性 (あじさい!)をその心とする集団が、まさにそのことにおいてある共同性を直接に在立せしめてしまう。あらゆるコミューンの実践にとって最も根本的な問題--人間の個体性と共同性の弁証法の問題が、この逆説のうちに鋭く提起されている。─ と述べる。

 さらに、ヤマギシ会の「一体」については、
─ 山岸会の「一体社会」において、諸個人の個性感覚や欲望や能力の差異は抹消するわけではないし、したがって相剋や矛盾ということも、事実抹消するわけではない。もしこれらが完全に抹消しているとすれば「研鑽」は入口ですみ、以後は技術的な打合わせ以外には必要ないはずである。しかし現実の山岸会は、「モチ」をその理念として志向する悠揚たる永久革命である。これは山岸会の限界ではなく、逆にその可能性である。山岸会を全体主義から区別するのは、「無固定前進」「零位に立つ」というラディカリズムである。それはあらかじめ枠付けられた観念のうちに諸個人を封じ込む全体性でなく、逆に諸個人の事実ある多様性を素材として総意をねりあげてゆく装置である。しかしこのラディカリズムを現実に保証するのは、たえず矛盾をその内部から提起する個性の多様性であり、これが同質化してしまう度に応じて、「無固定」も 「前進」もその内容を失って凝固してしまうだろう。モチはあくまでも絵にかいたモチであることに、山岸会の活力はある。─ と記述している。

 

 僕はいま、読み返し読み返し、そして咀嚼しながら、これらの考察に感動し考え続けている。