映画『泥の河』を観て原作『泥の河』を読む

◇映画『泥の河』
 先日、映画監督の小栗康平さんと親しい照明技師の知人・ツカヤマさんの誘いで、東京学生映画祭で上映された小栗監督35歳の時の作品『泥の河』を観た。

               

 実は、ツカヤマさんの紹介で小栗康平監督の今までの代表作と言われている映画を観て、いろいろ考えさせられることが多く、小栗作品にハマっている。
 小栗監督の代表作品と言われているのは、『泥の河』『伽耶子のために』『死の棘』『眠る男』『埋もれ木』『FUJITA』などがあるのだけれど、昨年夏に北千住の「東京芸術センター・ブルースタジオ」で上映していた『死の棘』『眠る男』『埋もれ木』を観て、今年は池袋で上映された『伽耶子のために』を観た。ツカヤマさんが照明を担当した『FUJITA』は公開の時に観ているので、観ていないのは『泥の河』。そんなことでぜひ観たいと思って、東京学生映画祭の会場の渋谷ユーロライブに出掛けて観た。

 この『泥の河』は、朝鮮動乱の新特需を足場に高度経済成長へと向かおうとしていた昭和30年代の大阪安治川河口を舞台に、橋のたもとの河っぷちの食堂に住む少年と、対岸に繋がれた廓舟の姉弟との出会いと別れを描いた、宮本輝太宰治賞を受賞した小説が原作である。
 とにかく観た感想を一言で言えば「いい映画だ」と、その完成度に感激して、約40年前に作られたにもかかわらず普遍的なテーマを内蔵した、いつまでも余韻を噛みしめていたい気持ちにさせる、そんな映画だった。
 内容やストーリーはいろいろなところに書かれているので省くが・・・。
 戦争から必死で生きて帰ってきて、これからと前に進もう、生きようとしているのに、ふとした出来事で呆気なく死んでしまう人の悲しさから物語は始まる。
 戦争はもうこりごりだと身にしみているのに、朝鮮戦争特需という、よその国の戦争のおかげでなんとか生きている現実。
 今をなんとか生きていても、心に潜む戦争の傷跡と、時代に翻弄されながらも正直に生きようと、捨ててしまった過去の出来事への後ろめたさ。
 時代の流れに乗れる人と乗れない人。
 そんな当時の切ない人間模様を描いている。

 出演者の演技も凄い。
 子供達の親を演じる田村高廣藤田弓子加賀まりこ。心の奥深くに悲しみを抱えながら生きる姿の演技に唸らされる。
 そして、子供を演じる2人の少年と一人の少女。さすが50日ほど監督と生活を共にしながら撮影したというだけあって、演技とは思えない演じぶり。
 すべての出演者が、それぞれが存在感があり心に残る。
 「これが小栗康平35歳の作品」がと驚きながら、テーマといい、出演者の演技といい、時代を超えて、いつまでも観続けられる映画として存在することだろうと思った。
 
◇原作となった小説『泥の河』
 映画を観た後に、宮本輝のデビュー作『泥の河』を読みたくなってメルカリで入手。

                

 映画とストーリーはほぼ同じで、映画の俳優達のイメージと重ね合わせて、さらに深く、物語に込められているテーマを味わった感じ。
 一読しただけなので、不確かな理解もあると思うが、2ヶ所だけ映画と原作は違っていた。
 一つは、父親が元妻の病院に少年を連れて行く場面。
 この話は原作にはない。しかし、宮本輝芥川賞をとった『蛍川』に同じような、女にできた我が子を育てるために、妻を捨てて女と駆落ちするというのがあり、元妻が我が子でない、その子に会いたいという話がある。我が子でないが好きな男の子供への思い、というテーマは、原作にはなかったが映画には挿入されていた。
 もう一つ、最後の場面。
 原作では大きな「お化け鯉」が、去りゆく船のあとに付いて行く。それを少年は、船の中の少年に知らせたくて、必死に追いかける。原作ではそのお化け鯉に大きな意味があるのだが、そこは映画では省いていたように思った。
 映画を先に観るか、原作を先に読むか、いつも迷うのだが、今回は映画を観た後に原作を読んで正解だったと思っている。
 小説『泥の河』も、普遍的なテーマを随所に織り込んだ、それを考えさせる物語だった。