16日からやっている「研鑽学校」で「対話について」考えている

 先週の木曜日・16日夜から、わが家・多摩実顕地では2週間の「研鑽学校」をやっている。

      

 自分の意見や他の人の意見を聞いて考える研鑽会は、夜の7時~9時の2時間。
 それ以外の日常時間は、研鑽会で考えてたことを基にして、それを実践する時間となっている。


 先日、ブログに書いた岡檀(おかまゆみ)さんの『生き心地の良い町』と、精神科医の森川すいめいさんの『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』の内容と繋がることをやっているので、僕はちょっと驚きながら毎日考え続けている。

 この本は、「生きやすさとは何か」を、自殺希少地域(自殺で亡くなるひとが少ない地域)のフィールドワークで考察した本なのだが「ひととひとの関係における対話」について示唆に富んだ内容なのだ。

 

 森川さんは、全国5ヶ所の自殺希少地域を訪ねて、「住みやすさ・生きやすさ」の共通点が何かあるはずだと考察しているのだ。


 その森川さんはこのように述べている。
「自殺希少地域にいたひとたちは、とてもコミュニケーションに慣れていると感じた。それをもう少し違うことばで表現すると、よく対話をしていると感じた。相手のことばをよく聞き、それに対して自分はどう思うかを話し、そしてまた相手がそれに対して反応する。ことばが一方通行にならないように対話をよくしている。」と書き、「今、私が考えているのは『対話する力』についてである。」

「ひとが呼吸をするように、ひとは対話をする」
 「生まれたときから、ひとは呼吸をし、そして対話をしている。
 対話とは、外の世界に反応し、それを自分の中で受け止め、それへの反応を返すことである。返した反応はまた同じようにして返ってくる。
 それはテニスボールを打ち合うのとは異なる。しっかりと受け、受けたことによって何かを感じ、感じたことを表現して、それを相手がまた受けて、それによって何かを感じ、感じたことを表現する。
 ひとが赤ん坊のときに上手だった呼吸は、大人になるにつれて下手になっていく。 自然な呼吸ができなくなると緊張が強くなったり、ひとと上手にコミュニケーションがとれなくなる。」「赤ん坊のように素直にひとのことばを聞き、それを素直に感じることができなくなって、そして互いに闘ってしまったり傷つけあったりしてしまう。」 

 このように自殺希少地域社会の中の『対話力』が、「住みやすい・生きやすい」大きな要素なのではないかと、「対話」の重要性を述べている。

 

 そして、「対話というのは、自転車に乗るようなも」と述べ、
 「自転車に乗れるようになったときに自転車の乗り方をことばで教えることはできない。対話も、どうしたら対話になるのかをことばで説明したとしても、対話ができるようにはならない。
 ただ、対話は、赤ん坊のころから私たちが行っているものであるがゆえに、自然な呼吸法を取り戻すのと同じように、対話の力は取り戻すことができる。自希少地域にいたひとたちは、とてもコミュニケーションに慣れていると感じた。それを、もう少し違うことばで表現すると、よく対話をしていると感じた。」と書いている。

 

 また、森川さんは「オープンダイアローグ」という精神療法を紹介しているのだが、それは「医師と患者の1対1の関係でなく、開かれた関係の治療法なのだ。
 治療ミーティングには、患者、家族、友人、医師、看護師、セラピストなど、患者に関わる全ての人が参加し、医療チームでの話し合いもすべて患者の眼の前で行い、医師の指導を仰ぐなどの上下関係はなく、専門家も家族や友人も同じ立場で発言し、耳を傾ける。そのような開かれたミーティングなのである。
 これも、僕たちが日々やっている「研鑽方式」と相通じるものではないかと思うのだ。

 

 僕たちは今、研鑽学校の中で、自分自身の「対話の点検」を、まさにやっているのではないかと思う。
 「相手に何かを言うとき、自分が伝えたい事は何か」
 「伝えたい事を相手に言う」
 「まず相手の話を全部聴く」
 「相手は今、何と言ったのか」
 こんなテーマを、日々の生活の中で実践しながら進んでいる研鑽学校なのだから・・・。