23日(祝)・「特講」という講習会についてのおしゃべり

◇昨夜は「男達のZOOM交流研鑽会」
 毎月第3金曜日に定例で開催していたのだが、今月は都合により昨夜の開催となった。
 ZOOMに全国各地から集まったのは12名。ほぼいつもの常連メンバーだ。

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 今回のテーマは、我々の共通体験のヤマギシの1週間の合宿セミナー「特講」についてだ。
 その「特講」を体験した僕たちは、出来るだけ多くの人に体験してもらえたらとの願いで、コロナ禍であっても「特講は開催したい」ということで、お正月に開催(12月29日~1月5日)することになっている。
 その開催を前に、もう一度、自分にとって「特講」を振り返ってみようと、

 -私の人生にとって「特講」って、何だったろうか?

 -「特講」で私が何を感じ、何を得て、今までの人生に影響していることがあるだろうか?

 をテーマで意見を出し合った。
 まず最初に、それぞれが「特講」を受けた動機やきっかけを出し合いながら、それぞれが「特講」体験をいろいろな感じで受け取ったこと、それが、今までの人生の中で何となく納得していたり、疑問のまま未消化で心に残っていたり・・・そんな心境を出し合う。
 「時々、腹が立っている自分に、特講で問われたこと、考えたことが甦る」とか、「普段考えたことがないことを、何で考えるのか理解できない中で、とことん考えたこと自体が貴重な体験だったんだなあ~」とか、「自分は最後まで納得いかなかった、今も自分の中では未解決だ」とか・・・。
 真剣な心情吐露のそんな時間で、出されたことを誰も否定することなく聞き合う、いい交流会となったと思う。

 普段、それほどの親交もないが、こうして心情を吐露できる間柄、まさにこれが「特講」を体験した者同士の不思議な繋がりを感じたオンライン交流会だった。

 

◇昨日と今日の朝日新聞の「折々のことば」
 2日続けて哲学者の鷲田清一さんが紹介しているのが作家の小沢信男さんの言葉だ。

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 この小沢さんも、昨夜、僕たちがオンラインで意見交換した「特講」を受けている。
 今年の3月に亡くなったのだが、僕もお付き合いしていた作家だ。
 その小沢さんは、2001年8月1日付の朝日新聞夕刊の「一語一会」という欄に『だれのものでもない』という題で「特講」に参加したときの様子と、特講に対する印象を書いている。
 小沢さんの訃報に接したときのブログにも書いたが、もう一度、ここにそれをアップし紹介する。

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 ──「たしか東京オリンピックのあった年だから、三十七年もむかしのこと、山岸会の特別講習会に私は参加した。農業を基盤とする山間の共同体に、一週間泊まり込んだのだった。洗面所の歯磨きチューブを置いた棚に、こんな小さな張り紙があった。『だれのものでもない』
 なんだいこれは。いかに無所有社会とはいえ朝からお説教かい、と反発をおぼえたが、そのうちこれが可笑(おか)しみになった。だれのものでもない歯磨きチューブから、朝ごとに必要量を消費して、口のまわりを白くしながらニヤニヤ笑えた。
 現にいまでも、こうして思い出せば、愉快をおぼえる。あの小さな張り紙だけでも私にはなつかしい里だ。
 一週間のうち、初めの三日は腹を立てていた。徹夜で討議したはてに、最初の答えと同じ結論になったりする。あいにく私は町場育ちで気が短い。が、根は愚鈍につき、ようやく気づいた。目から鼻へ抜けるのが理解ではないのだな。だれのものでもないとは、私有の否定だけではなくて、共有でもないのだな。
 たとえばの話、地球の皮、太初このかたこの地べたが、ほんらいだれかのものであるはずがない。と思えば胸がせいせいしませんか。その私有を忽(たちま)ち正当化する理論があるならば、眉(まゆ)に唾(つば)をつけておこう。私有を廃して国有にしてみても、しょせん五十歩百歩だったという実験にも、八十年はかかるのだものね。
 人間の命もまた、国家や組織や会社なんかに所有されるものではない。とは、こんにちだいぶ自明の理になってきた。
 だが、さて、こうして七十余年生きてきた私の命が、あの洗面所の小さな張り紙が告げるように、だれのものでもない、つまり私のものでないとすると・・・?」