「文藝春秋」掲載の芥川賞受賞作『彼岸花が咲く島』を読む

 今号の「文藝春秋」には、芥川賞受賞作2作が掲載されている。
 そのうちの1つ、彼岸花が咲く島』を読んだ。
 著者の李琴峰(り ことみ)さんは、過去の作品も芥川賞候補や野間文芸新人賞候補にもなっているらしいが、僕は李さんお作品は初めて読む。

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 この芥川賞受賞作彼岸花が咲く島』を読み進めていて、最初に「今までの芥川賞作品とはちょっと違うなあ?」と感じた。


 物語は、沖縄と台湾に挟まれているらしい、彼岸花が群生する、小さな架空の島が舞台となっている。
 その島の浜辺に、記憶喪失した少女が漂着して物語は始まる。
 少女は、発見者の少女・游娜(ヨナ)から宇実(ウミ)と名付けられ、共に暮らすのだが、その島では日本語と中国語と琉球方言が混ざったような奇妙な「ニホン語」が通常話す言葉だ。その他に、ノロと呼ばれる島の女性指導者たちだけが使い、女子だけが学ぶことのできる「女語(じょご)」という言葉がある。そこに漢字が存在しない奇妙な「ひのもとことば」(日本語)を理解している少女が漂着し暮らす。
 この「ニホン語」と「女語」と「ひのもとことば」が、微妙にわかり合える部分を持ちながら絡み合って、独特な語尾を付けながら会話が進む物語は、日本と似て非なる小さな島と一緒に、独特なファンタジー的作品を醸し出している。

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 この小さな島は特殊な世界である。

 ノロと呼ばれる島の女性指導者だけが、島の歴史を語り継ぎ、島の行事や祭事のすべてを取り仕切るし、島民達の生活と命をも守り、島を統治してきた歴史がある。
 そんな女尊男卑とも言える中で、游娜(ヨナ)と宇実(ウミ)の2人の少女と、男だからという理由で、「女語」を学ぶこともできなければ、島の歴史も知ることができない少年・拓慈(タツ)の3人で物語は展開する。

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 漂着した宇実は、大ノロと呼ばれる島の女性最高指導者から、ノロになることを条件に島での生活を許され、游娜とともにノロを目指す。それは、ノロになれたら、男だから島の史実を知ってはならないという現状打破をするという、拓慈との約束を達成するためでもある。
 しかし、実際にノロとなって島の成り立ちと歴史を知った2人は、その意外な史実と、それによって守られ続けて来た村の歴史の継承を、拓慈に話すべきかどうかと躊躇し、友情との板挟みに葛藤する。
 それぼど、この村には世界の常識ではありえないような、意外な史実が伝説的に存在しているのだ。                        

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 このような奇想天外とも言える物語の構成に、不思議な興味を抱きながら「やっぱり、今までの芥川賞受賞作とは、ちょっと違うなあ~」と未消化で読み終わったのだが、その後、著者の李琴峰さんが授賞式で講演された内容を読んで、改めて本書彼岸花が咲く島』の作品と、その中に込められた著者の意図する想いに触れて、未消化な部分を少しは解消できたのではないかと思えた次第。
 李琴峰さんは授賞式で次の様に語っている。
-今回の作品は、形式的にはこれまでの『ポラリスが降り注ぐ夜』や『星月夜(ほしつきよる)』とは一線を画す、ファンタジー風の小説になりましたが、ここで描かれているのは従来の作品と共通した問題意識、つまりは言語や国家、文化や歴史に対する思索、更には現代社会や政治に対する危機感や、カテゴライズされることの苦しみ、などと言えると思います。--この賞を、世界のひび割れに戸惑っていた22年前の自分に、「あいうえお」を独学していた17年前の自分に、そして世界の悪意に苛まれ、苦しめられていた12年前の自分に、捧げます。--


 こんな理解と言い方をすると、カテゴライズだと言われそうだが、まさに、本書の受賞のことばにも書いているように「不条理に押し付けられた人間としての生」を見つめる李琴峰さんだからこそ、この物語が生まれたのだと僕なりに納得。