ドキュメンタリー映画『 沈没家族 』を観る

 2ヵ月ほど前に、友人のオオサワ君から、彼が製作に携わった映画『 沈没家族 』の試写会案内ハガキが届いていた。
 その時は、試写会上映日と、僕のスケジュールが合わず観ることが出来なかった。
 一昨日、その映画がポレポレ東中野で公開が始まったとの新聞記事を読んだ。

     f:id:naozi:20190412103309j:plain

 記事のリードでは
「あるシングルマザーが24年前、息子を一緒に育ててくれる人を貼り紙で募集した。集まった50人超の若者たちに囲まれて育った加納土(つち)さん(24)が、彼らを再訪して記録した映画が、現在公開中だ。当時から実験的な家族の形として注目され、賛否両論があったが、20年余り経つ今も「かわいそう」と言われることに加納さんは違和感を持つ。」と紹介されていた。


 せっかく、オオサワ君が僕を招待してくれたのに、観なくて申し訳ないという気持ちと、この記事の『20年余り経つ今も「かわいそう」と言われることに加納さんは違和感を持つ』という言葉に興味を持って、昨夜、仕事帰りにポレポレ東中野に寄って観た。

       f:id:naozi:20190412103351j:plain

 「母はどうしてたったひとりで、この〝家族〟を始めたんだろう?」と、そこで育った監督の加納さんは問い続けながらカメラを回し、関係した人たちに会って話を聞く。
 当時も、実験的な家族の形としてメディアが取り上げ、賛否両論があったようだが、家族とは何か、血の繋がらない者同士が共同で暮らすとは・・・、などなど、いろいろと考えさせられる映画だった。
 そこで育った監督の加納さんは「遊ぶ相手が普通の子より多くてラッキー」くらいの気持ちで、「僕にとっては濃密で幸せな思い出で」とその育ちを位置づけ、「家族のイメージに縛られず、それぞれの大人が楽しく生きやすいようにやっていても、僕は育った」と語る。
 加納さん親子以外にもシングルマザー2組がいて、加納さんと一緒に育った2歳年上の女性は「家の中に親や教師以外の甘えられる場所があったことはすごいことだった」とふり返って語る言葉が印象的だった。