今日の『折々のことば』を読んで

 東京も、7月に入ってずっと続いていた梅雨のような、はっきりしない天気が終わって、残暑が復活。
 今日も残暑厳しい、暑い一日だった。
 この時期になると、セミの声がよく聞こえるが、もう一つ存在感を出すのが、芙蓉の花だ。
 今朝、いつも乗るバス停をカットして、2つ先のバス停まで歩いたら、気品高く、そして優雅に咲いている芙蓉の花を見つけた。
        
        


◇今朝の朝日新聞に載っていた哲学者・鷲田清一さんの『折々のことば』
        

    
    するんじゃなしに、さしてもらえるんです。
                       ある棟梁


 鷲田さんの解説
 京都の祇園祭長刀鉾なぎなたほこ)の組み立てを任される棟梁は、男たちを指揮して20メートル程の柱を建てる。この仕事を誇りに思うという。まちの歴史をつないでいるという誇りは、「あいつになら委せられる」というまわりの人たちの信頼と承認に拠る。プライドは自分で形づくるのではなく、他者から贈られるものなのだ。NHKのテレビ番組「サラメシ」(2015年7月27日放送)から。
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 鷲田さんは、京都大学総長の山極寿一さんとの対談本『都市と野生の思考』の中でも、京都の祇園祭を、成熟都市の象徴として取り上げている。

 本書第二章「老いと成熟を京都に学ぶ」の中で
「高度経済成長期に大切な社会資本が失われてしまったのではないか。歳をとって隠居するということは、これまでのような生産とは異なる場に、自分の身をおくことになります。そこで頼りになるのは、信頼できる人間関係に象徴される社会資本です。」(51頁)と述べる。

 このように鷲田さんは、都市のコミュニティの中で「まわりの人たちの信頼と承認に拠る」シニアの存在こそが、老後を生きると言うことではないかと投げかける。
 そして「コミュニティは、そこに暮らす人たちが根っこで絡み合うことで成立するものです。何か困ったことがあっても、以前ならたいていは近所のネットワークで解決できた。定年退職した人でも、何らかの形で地域の役に立つから、死ぬまで自分のポジションを確保できたのです。たとえば電気工事に詳しい人、釣りの名人、田植えのうまい人とか。これをあの人に頼んだらいいという、複数の人による重層的なネットワークが機能していた。ところがグローバル化によってネットワークが失われて、システムに置換されてしまった。システムの中では、個人はいくらでも交換可能な匿名の存在として組み込まれざるを得ません。システムにぶら下がって生きるしかない現状が、老いの不安を煽っているような気がします。老いの尊厳が失われてしまったのです。」(53頁)と、我々シニア世代がおかれている問題を分析する。