時代の転換期の「後始末」について

 これからおしゃべりしようと思うことは、浅田次郎著『五郎治殿御始末』を読んだあとに、ちょっと考えてしまったことだ。
            
 この文庫本は、先日、映画『柘榴坂の仇討』(中井貴一主演)の映画を観た帰りに、映画に感動して原作を読んでみようと買ったものだ。
 内容は、6編からなる短編集なのだが、映画を観た勢いで「柘榴坂の仇討」だけは読んで、机の片隅に置いたままになっていたのだが、折角だからと、他の5編の「椿寺まで」「箱舘証文」「西を向く侍」「遠い砲音」、そして文庫のタイトルにもなっている「五郎治殿御始末」を、それぞれが40ページ前後なので、通勤時の車内で1篇ずつ間をおきながら読んだ。
 映画の原作になった「柘榴坂の仇討」もそうだが、他の短編も、幕末維新の激動期、時代の移り変わりに翻弄されながら、武士としての自分の矜持に幕を引いたというか、それぞれが維新という時代の転換期に、それぞれの「後始末」をした侍たちの物語だった。

 そんなことで今回は、時代の転換期の「後始末」について、少々考えてしまったので、物語の展開に伴う読後感想というより、そんな観点に絞って記してみたい。 
 浅田次郎はこの文庫の代表作「五郎治殿御始末」の最後に、武士道とは「無私無欲であることを第一とした」と、葉隠の精神の本来の意味を説きながら、
 ─ 社会科学の進歩とともに、人類もまたたゆみない進化を遂げると考えるのは、大いなる誤解である。たとえば時代とともに衰弱する芸術のありようは、明快にその事実を証明する。近代日本の悲劇は、近代日本人の奢りそのものであった。─ と書いている。
 そして文庫の解説で磯田道史は、「幕末はそれほど遠い時代ではない。」という書き出しで始まって、
 ─ 一つの時代が終わると、必ず後始末というものが、必要になってくる。武士の世のおわりにも、それはあった。(中略)浅田氏は、そのなかで苦しみながらも、まっとうに生き、見事に後始末をつけてきた侍たちの生きざまを描いている。 ─ と評価し、
 ─ しかし、今日の我々は、かつての経済的な過ちに「始末」をつけているだろうか。国も地方にも、大きな借金の山をつくり、ある意味で、この国の「公」というものを無茶苦茶にしたまま、子や孫たちに世代を譲ろうとしているようにも見える。 ─ と言い、「五郎治殿御始末」の作中で、かつて武士だった老人が孫に「ただただ美味しい栗飯を食べさせたい」と栗を剥く姿を取り上げながら、
 ─ 子や孫に「旨い栗飯」を食わせるどころか、親たちが栗飯を先に食ってしまって、子や孫を呆然とさせている有様かもしれない。─ と、今の日本の1000兆円もの国の借金の状況や、現在の僕たちへの警告ともとれる言葉を書いている。

 前日読んだ『資本主義の終焉と歴史の危機』や『定常型社会・新しい〝豊かさ〟の構想』で、それぞれの著者が、これからの社会システムが「成長」でなく、「脱成長」という視点で構築しなければならないが、いまだに「成長」を信奉して政策がなされていると警告していたことと、僕の中では浅田次郎が『五郎治殿御始末』で書こうとしたことが、何故か繋がって、現在という中に生きる僕たちにとって、長いこと続いた「成長の時代」の後始末とは、いったいどのような事だろうかと考えてしまった。