文庫 『 船に乗れ! 』 を読む

 今月半ばに豊里実顕地に出張した時に、エイコさんが貸してくれた文庫本・藤谷治著『船に乗れ!』をやっと読み終えた。
 「やっと・・」と書いたが、それは爽やかな読後感だ。
 例えば、暫くぶりの山登りで、自然の香りに触れながら、ときには足腰の疲れを労わりながら、やっと辿り着いた頂上で腰を下ろした時のような、そんな感覚だ。
         
 このブログに、時々、読んだ本の感想を書くようになって、読書友達が増えた。
 僕の読み終った本だって、以前はせいぜい妻が時々読むくらいで、ほとんどは本棚に埋もれてしまうか、ブックオフで購入価格の一割程度で処分するかだったが、最近は何人かの読書友達のところにいっている。
 逆に、僕にも「これ、読んでみる?」と声をかけてくれる人も増えた。
 その一人がエイコさんなのだが、今回、貸してくれたのは、音楽家を目指す青春小説だった。
 それも、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲと文庫本3冊の長編だ。
 読書友達ができての一番のメリットは、著者も分野もモチーフからも、決して自分では手に取ることはないだろうと思うような小説に出会うことだ。
 この長編青春小説だって、僕が疎い音楽の世界だし、いまさら青春小説をあえて読もうとなど思わなかっただろう。
 読み始めても、クラシック音楽と、その演奏の専門的な言葉が頻繁に出てくるし、正直、こんな高校時代の思い出を書いた長編に・・・と思ったが、エイコさんが薦めてくれたのだし、僕の知らない世界にきっと出会えるだろうと思って読み続けたら、いつのまにか、専門用語を理解したり覚えたりしなくても、しかし苦にならないで、その世界に引き込まれてしまった。
          
 まえがきが長くなってしまったが、この藤谷治著『船に乗れ!』、実に奥の深い物語だ。
 音楽家を目指すという特殊な環境の少年の悩みや葛藤でなく、青春時代なら、多かれ少なかれ、誰でもが抱えるような心情を、丁寧に、奥深く描いている。
 音楽一家に生まれた主人公。
 幼い頃から音楽家を目指してチェロを習い、国立の芸術高校を受験するが不合格となり、祖父が創始者のひとりである二流の音楽高校に進学する。
 そこでの厳しい練習の日々の中で、級友と友情を育み、心ときめく初恋もして、音楽家を目指す環境にも恵まれて、将来に何の不安もなく過ごす。
 しかし、思わぬ出来事で恋人を失い、自分の音楽家としての才能の限界にも気付き、プロの演奏家としての望みを捨てる。
 簡単に書くと、そんな青春時代の葛藤の物語なのだが、哲学的テーマや、オーケストラを演奏するなかでの一体感の構築など、かなり奥深いテーマを描いている。
 例えば、第二巻の中に「なぜ人を殺してはいけないのか」と、倫理の授業で先生に質問する。主人公と先生の深いやり取りの末に、先生は「人を殺す君を、君は許さないから。」と言う。
 また、第三巻での文化祭での演奏会で、一年前に学校を去ってしまった恋人が友人の計らいで、校則を犯して突然演奏に加わり、主人公は困惑の中で演奏をしながらも、最後は最高の演奏だったと一体感を共有できるミニコンサート。読んでいて感情移入して目頭が熱くなってしまった。
         
 なんと言っても最後がいい。
 人は誰でもが、青春時代の自分と折り合いがつかない部分を持っている。
 仮にそれを感じないとしたら、大人になったという常識で忘れているか、日々の惰性的な日常に埋没しているからだろう。
 そんな自分に許せなくて、青春時代を回想しながら書きあげた著者は、

    あの頃の僕は、もういない。
    いるのは私だけだ。
    あの頃の僕に、今の私が、できることはなんだろう。
      (中略)
    それは抱擁のかたちだった。
    今の私が、昔の自分を抱きしめていた。 

 ここに辿り着く。
 
 人は誰でもが、その人の人生という船に乗り、船の揺れを感じながら生きている。
 それを丁寧に、そして奥深く、書きあげている。
 音楽の世界に疎い僕でも、十分に感動し、爽やかな読後感をもらった長編青春小説だった。