毎月1回やっている「男達のZoom研鑽交流会」の常連メンバーの中に、父親が周防大島出身だという人が2人いて、民俗学者の宮本常一の話題が何回か出たので、私も宮本常一については興味があったので、文庫『旅する巨人』をブックオフで見つけて読んでみた。
宮本常一については少しは知っていたが、改めて凄い民族学者だったと再認識。
宮本常一の民族調査の旅は、日本列島のすみずみまで歩き、1日当たり40キロ、のべ日数にして4000日に及ぶとある。
著者は「宮本は七十三年の生涯に合計十六万キロ、地球を丁度四周する気の遠くなるような行程を、ズック靴をはき、よごれたリックサックの負い革にコウモリ傘をつり下げて、ただひたすら自分の足だけで歩きつづけた。泊めてもらった民家は千軒を越えた。」と書き、「宮本はよく旅の巨人と言われる。しかし、その大きさは、歩いた距離にあるわけではなかった。宮本の本当の大きさは、歴史というタテ軸と、移動というヨコ軸を交差させながら、この日本列島に生きた人々を深い愛情をもって丸ごととらえようとした。その視点のダイナミズムとスケールにあった。」と評している。
その生涯の調査研究の日々の足跡を、著者は実の細かく丹念に取材しながら描いている。
そして僕が、この著者で驚き知ったことは、昨年、NHKの大河ドラマで放映されて話題となった渋沢栄一の孫・渋沢敬三という人物の存在と、宮本常一との切っても切り離すことが出来ないほどの関係である。
著者は「宮本の生涯を追っていくうち、渋沢敬三という巨大な存在が、私の視野にせりあがってきた。柳田国男や折口信夫と並ぶ大民族学者であり、同時に、日銀総裁や大蔵大臣をつとめた経済人でありながら、いま彼の名を知る人はきわめて少ない。渋沢敬三もまた、宮本同様、いつの間にか〝忘れられた日本人〟の範疇に組みいれられていた。」「だが、もし渋沢敬三がいなければ、宮本の業績は間違いなく生まれなかった。そればかりか、民俗学及び民族学をはじめとする日本の人文分野の学問の発展もなかった。渋沢敬三が学問の発展にかけた物心両面にわたるパトロネージュ精神は、それほどのものだった。」とあとがきに書いている。
宮本常一は75歳で武蔵野美術大学の教授になるまで定収入を持たずに調査研究が出来たのは、渋沢敬三の物心両面の多大な援助だったのである。
そのパトロネージュは、宮本一人だけでなく、広範囲におよんでいて、何と日銀総裁という立場でありながら、マルクス主義経済学者の向坂逸郎や大内兵衛などまで援助している。宮本が晩年の敬三に「先生が学界のために使われたお金は一体どれくらいになるのでしょうか。」と問うたら「さあ五億ぐらいにはなるだろうか」と答えたという。「現在の貨幣価値に換算すれば、敬三は少なくとも五十億円、ひょっとすると百億円近い大金を学問発展のためにつぎこんだと考えても、そう間違ってはいなかった。」と著者は書く。
◇渋沢史料館
この渋沢敬三という人物について、僕は興味が湧き、読み終わった後に、都内の王子駅近くの飛鳥山公園内にある「渋沢史料館」だったら、何か資料展示されているのではないかと思って訪ねた。
しかし、そこには渋沢栄一の生涯とその業績だけの展示で、残念ながら渋沢敬三についての資料は展示されてなく、敬三誕生の幼少の写真だけだった。