縄文時代が面白い・その2

 今日は帰宅して食事が終わったあと、なでしこジャパンの韓国戦をのんびり観ようと、テレビを点けて観だしたが、試合の展開がパッとしない。
 途中で観るのをやめて、ブログを書きだした。


縄文文化の「贈与交換」について
 旭川市博物館長の瀬川拓郎さんが書かれた『アイヌと縄文』(ちくま新書)を読み終わったので、特に興味をもった点について記しておく。
        
 先日も、この本の前半で著者が述べている「縄文文化は心の文明」とことを書いたが、その視点の続きとして、特に「贈与交換」について記しておこう。

 著者は、縄文人の末裔であるアイヌ人は、和人や東北アジアの諸民族と交易をおこなっていたが、
アイヌ同士で物々交換をおこなうことは基本的にありませんでした。アイヌ同士でのモノのやりとりは、すべて贈り物としておこなわれていたのです。」と書いている。
 つまり、アイヌが引き継いだ縄文思想の中に、等価交換である物々交換や商品交換は非対称化するものだと忌避し、贈与交換がなされていたというのだ。

 近代までいた、アイヌと共通する縄文風習の抜歯とイレズミの伝統を残していた西日本の漂海民(陸上に住居を持たず一生を船の上で暮らす漁業者)は、
「自分たちの捕った魚などが銭で買われることを好まず、陸上の知人に贈り物として与え、その返礼として祭事に招待をしてくれることをよしとし、そのような関係を〝親戚〟とよんでいました。」とも書いている。

 著者は、フランスの社会学者マルセル・モースの『贈与論』を取り上げ、提供の義務、受け取る義務、返礼の義務という3要素を含んでいる贈与交換は、単なる経済的な意味の交換ではなく、社会的な意味をも含んだ営みなのだという。
 つまり、等価交換は関係の清算であり、贈与交換は仲間や社会の関係の継続であるというのだ。

 最後に著者は、
アイヌが守りとおそうとした縄文思想とは、人びとを〝親戚〟としてむすびつけるこのような連帯の原理であり、かれらが商品交換を忌避したのは、それが人びとを不平等化し、差別化していく対極の原理だったからにちがいありません。
 私たちは、商品交換という禁断の木の実を口にした存在です。その原罪は、日本列島のなかに〝外部〟が成立した弥生時代以降、列島の人びとを取りこんできました。そしてそれは、本州社会で戦争を常態化させ、王を誕生させ、国家を成立させてきました。」と考察する。

 さらに著者は、
「私たちが縄文の思想を知る意味とは、非対称化していく歴史の中で、原郷の思想である連帯と平等をかたくなに守りとおそうとしてきた人びとが今なお私たちの目のまえにいること、さらには漂海民のようについ最近まで私たち自身のなかにもいたことをとおして、その意義に今一度おもいをめぐらせてみることにある、といえるのではないでしょうか。」と結んでいる。

 縄文時代、縄文思想、さらにアイヌ民族について、興味がある人にはお勧めの新書だ。