今日から4月がスタート

 桜の花をはじめとして、春の花々が咲き乱れ、新しい年度にウキウキと過ごす、いつもの4月とは、だいぶ異なる今年の4月のスタートになってしまった。
 新型コロナウイルス感染は、今日も東京で65人以上が確認され、不安が増すばかり。
 こんな時に、どう考え、どう行動したらいいのか、それぞれが問われていると思いながらも、ネットニュースやTVの報道番組に、知らず知らずに右往左往している自分がいる。

 そんな4月1日。
 我が家のイナダ夫妻の長男が、今日から保育園。
 そのお祝いと、コロナ騒動で沈みがちの持ちを少しでも払拭できればとの配慮からか、夕食のメニューは「ちらし寿司」だった。

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◇昨日の朝日新聞から
 3月31日の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」ページで、『 現代文明 かくも脆弱 』と題して、京都大学名誉教授の佐伯啓思さんが、現代社会もしくは現代文明に対して、この新型コロナウイルス騒動は、どんな意味をもっているかを、論じている。

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 読んでみて「そうだなあ」と思った箇所を、メモ代わりに一部抜粋して転載させていただく。

── 現代文明は、次の三つの柱をもっている。第一にグローバル資本主義、第二にデモクラシーの政治制度、第三に情報技術の展開である。それらは、人々の幸福を増進し、人類の未来を約束するとみなされてきた。だが、今回のコロナウイルス騒動は、この楽観的な将来像に冷水を浴びせかけた。

── 問題は、新型コロナがまったくもって未知のウイルスだという点にある。何が事実かが、本当のところわからないのだ。どれだけの脅威かもわからないのである。これは、ある程度、経験的に確率的な予測ができる「リスク」ではなく、経験値がほとんどなく確率的予測も不可能な「不確実性(アンサーテンティー)」の状態である。リスクならまだしも政府による「リスク管理」の可能性もあるが、不確実性にあっては、誰も予測も管理もできない。

── 今回のような新型の病原体の出現は、リスクではなく不確実性である。その時かろうじて頼りになるのは、政府や報道ではなく、われわれのもつ一種の「常識」や「良識」であろう。政府に依存し、報道に振り回されるよりも前に、自らこの事態をどう捉え、どう行動するかを判断するための「常識」であり「良識」である。

── この10年、20年のわれわれの生活がいかに「異常」だったかということになる。皮肉なことに、今回の「異常事態」が逆に、この間のグローバル競争の異常性をあぶりだした。今日のグローバル資本主義のなかで、われわれはすっかり余裕もゆとりも失っていたということになる。市場主義や効率主義や過剰な情報文化は、われわれから思考能力も「常識」も奪い取っていった。人々と顔を突き合わせて話をし、家族や知人とゆっくりと時間をすごす日常的余裕がなければ「常識」など消えてしまう。

── 人類は長い間、生存のために四つの課題と闘ってきた。飢餓、戦争、自然災害、病原体である。飢餓との闘いが経済成長を生み、戦争との闘いが自由民主主義の政治を生み、自然との闘いが科学技術を生み、病原体との闘いが医学や病理学を生んだ。すべて、人間の生を盤石なものとするためである。そしてそれが文明を生み出した。
 だが、この極北にある現代文明は、決してそれらを克服できない。とりわけ、巨大地震や地球環境の異変は自然の脅威を改めて知らしめ、今回のパンデミックは病原体の脅威を明るみにだした。文明の皮膜がいかに薄弱なものかをあらためて示したのである。