朝刊を読みながら・おしゃべり

 今日は穏やかな秋晴れ。朝夕の空気はめっきり冷たくなってきた。
 昨日、栃木県の大田原農場からとってきた菊の花が、早速、ロビー入口の文化展示コーナーにカズコさんが活けてくれた。
      


朝日新聞朝刊の「折々のことば」
 朝日新聞1面の左下に哲学書鷲田清一さんが執筆している『折々のことば』がある。
 今朝は、医師であり作家の南木佳士さんのことばを紹介していた。
          
─ みな、きちんと語ろうとするときは聞く者がいないし、真剣に聞きたいときは語る者がいないのだ。(南木佳士)─
 面と向き合うと、理解しようと焦って、聴くより先にその人の物語を勝手にまとめだしている。思い浮かぶ記憶も空想の糸で編まれていて、隔たりは埋まらぬまま。そして相手をもっと理解したいと思った時はもうその人はいない。時の移ろいの中で人の関係はいつもちぐはぐで哀(かな)しい。昨日と同じ短編小説集「先生のあさがお」から。(鷲田清一


 実は、先日、関東で開催した合宿研鑽会の感想を聞いたときに、「零位に立って聞く」と言うテーマの研鑽の時に、その実践で、全員が目隠しをして自分の考えを出したり、人の意見も聞いて、それがとても新鮮で素直に言っていることが入ってきて、「零位に立って聞くとは、こんな感じなのかと思った。」と言っていたのを思いだした。
 最近の研鑽学校や合宿研鑽会の時の「零位」の研鑽で、その実践に「目隠しの聞く」をしているようだ。
 南木さんが言うように、僕らは時として「理解しようと焦って、聴くより先にその人の物語を勝手にまとめ」そして「思い浮かぶ記憶も空想の糸で編」んでしまうことがある。
 それも、それを気付かないで無意識の事だから恐ろしい。
 そうしないで「相手をもっと理解したい」ものである。

 ここで紹介されている南木佳士さんは、僕の好きな作家のひとりである。
 長野県佐久総合病院に内科医として勤務するかたわら、小説を書く芥川賞受賞作家だ。
 南木さん自身もパニック障害で病棟責任者を辞任したり、鬱病を発症したりしている。 小説『阿弥陀堂だより』は映画にもなって、僕の好きな小説だが、パニック障害を病んだ妻を連れて帰郷した夫と、村の阿弥陀堂を守る老女との交流を描いた味わい深い作品だった。
 鷲田清一さんが取り上げた短編小説集『先生のあさがお』を、探して読んでみたくなった。


東京新聞の「日々チョウカンヌ」
 東京新聞朝刊、最後のページ左中段の「運勢」の上に、今日は何の日かを紹介している『日々チョウカンヌ』という小さな記事がある。
 「今日はかき揚げの日」なのだそうだ。
           
 いろいろな業界などが、宣伝効果を狙って何々の日と制定しているが、「なんでまた、かき揚げなんだ。」と不思議に思った。
 記事によると
 『今日はかき揚げの日。うどんやそばなど麺類にのせられることが多いので、カレンダーで「めんの日」(11月11日)の上にくる11月4日になったんですって。』
 と書かれていた。
 では「めんの日」は、なぜ一週間後の11月11日なのかと言ったら
 11月11日ならびに毎月11日は、細長いめんを数字の11に見立てて、全国製麺協同組合連合会が制定し、めん類をPRする日にしたらしい。
 ちょっと、こじつけに感じるが・・・。