「怒り」は心のムダづかい

 先日、Sさんから「今日の新聞広告に、新潮社の『ゆるす』がありました。怒りを捨てたときの奇蹟だそうです。世界中の人が感動した講演だそうです。」というメールをいただいたので、書店に行ってみると、話題の本らしく目立つところに置かれていた。
        
 『ゆるす―読むだけで心が晴れる仏教法話―』ウ・ジョーティカ著・魚川祐司訳
 著者は、ミャンマーの僧侶なのだが、ローマ・カトリックのミッション・スクールで教育を受け、大学では電気工学を学び、結婚後に出家し僧侶になったという異色の経歴の持ち主で、国際的に活動している。
 本の帯には、─「怒り」は心のムダづかい。─ とある。
 ヤマギシの合宿セミナー『特講』の中でも、「怒り」は大きなテーマとして取り上げている。
 ネットの書籍案内にも「さあ、怒りを捨て、自由になろう。感動の名講演。」とある。 
 「怒りを捨て、自由になろう」とは、『特講』と同じではないか。
 そんなことを思って読みはじめた。

 講演(法話)集なので、読みやすく分かり易い。詳しく書くことは避けるが、ちょっとだけ僕の理解した範囲で要約し紹介すると、
 「どんな時に怒りを感じるのか」では、「強い苛立ちを1時間のあいだ抱えていることで、あなたは12時間働くよりも多くのエネルギーを消費することになります。」と、いかに「怒り」が心身ともに非生産性であるかを語っている。
 そして、「あなたは自分の心の主人公ですか? それとも自分の心の奴隷ですか?」と問う。

 さらに、今の自分の不幸は誰かのせいだと思って「許さないでいることは、ある種の牢獄です。」「誰かを許すことができない時、私たちはその人を、牢獄に入れているのです。」と語り、その時「あなたは鍵を持って、門の前に立って」「私はお前を解放しない、できるけれどもそうしないんだ。」というその行為は、同時に「自分自身を牢獄の中に置いている。責めることも同じであり、罰することもまた牢獄です。」「怒っている時には、その世俗的な世界に囚われているのです。腹を立てている限り、恨みを持っている限り、思考の中で誰かを罰し続けている限り、私たちはこの世界に囚われている。」と語り、「許す」ことによってのみ、自分の「自由」も得られると言っている。

 仏教徒僧侶である師は、それを瞑想によって成せるもので、「一つは形式に則った座る瞑想であり、もう一つは日常における、形式をもたない瞑想の実践です。」と説いているのだ。
 師はさらに「私は周囲に見える世界を、変えることはできないかも知れない。しかし、私の中で世界がどんなふうに見えるかを、変えることはできるのです。」と、意味深いことを語っている。


 「怒り」からの解放=自由。世界中の人々が共感するテーマ。
 師の説いている瞑想によって得られる、心の状態や気付きと同じもの(あるいは似たもの)が、僕は、一週間の『特講』にあると確信している。