「東日本大震災・募金」を通して「善意」を考える

 昨日4日、ヤマギシ会に集まった「東日本大震災・募金」を、サユリさんとユキエさんと僕の3人で、飯田橋に東京事務所がある某・NPO法人に届けに行った。
 飯田橋駅から徒歩で5分ほどのビルの7階、それほど広くないフロアーに25人前後の若い人たちが家庭的雰囲気(サユリさん表現)で、―(このような団体には官僚的雰囲気のするところが多い)― パソコンに向かいながら、日本の各地、いや世界各地と連絡を取り合いながら事務を執っていた。
◇そんなことで、今日は「善意」について考えてみたい。 
 今回、この集まった募金を「どのように活かすか」を研鑚する中で、いろいろと考えた。
 そんな折に、精神科医香山リカさんがDIAMOND Onlineに書いていた「日本人が望む善意の形」という文書に出会った。
 その香山リカさんが言う「善意」を要約すると、
 欧米には、昔から「ノーブレス・オブリージュ(富や権力には責任が伴う)」という言葉があり、チャリティーは裕福な貴族や王室の義務という考え方で「余裕のある人たちが困っている人たちに対して慈善の精神でチャリティーを行う」という精神が脈々と受け継がれている。
 一方、日本人の基本的な善意のあり方は、裕福な人や身分の高い人が貧しい人や弱い立場の人に「施す」という善意よりも、むしろ、困っている人同士が助け合うという考え方。
 それほど余裕があるとは言えない多くの人々がこぞって募金を行い、「自分が困っているからこそ、被災地で困っている人の辛い気持がわかる」と、今回の被災地への募金は集まった。
 これは、日本の民話の「笠地蔵」に流れる「余裕がなくても助ける」精神で、それが日本人に脈々と流れている。

−−民話「笠地蔵」−−
 貧しいけれども心の優しい老夫婦が、正月に食べる餅を買うために笠を五つ作り、おじいさんが町に売りに出かけます。
 激しい雪が降り続ける町までの道中、おじいさんは雪をかぶった六つの地蔵に出会います。地蔵の哀れな姿を見過ごすことができないおじいさんは、売りものの五つの笠と自分の笠を地蔵にかぶせ、何も持たずに来た道を引き返していきます。
 家に戻ったおじいさんは、ありのままをおばあさんに話して聞かせます。おばあさんは怒るどころか、おじいさんの行為を笑顔で褒めるのです。

 その後、おじいさんに感謝した地蔵が餅を持ってくることで民話のラストになるが、おじいさんは「最後には報われる」という見返りを期待して、地蔵に笠をかけたわけではない。貧しい弱者がもっと困っている弱者に手を差し伸べるという考え方のもとが、そこには流れていると香山リカさんは書いていた。 
 
 確かに、3月の震災以降、街頭での募金箱に応えていた子供を含めた多くの人々の姿もそうだったし、ヤマギシ会の呼びかけに応えて振り込んでくれた人達にも、それは感じることが出来る。
 今回、集まった募金は、あの被災地の現実をニュースなどで見て、誰でもが、居ても立ってもいられない衝動に駆られ「いま、自分に出来ること」として、募金という形に現れた「善意」だと思う。人として、誰にでもある気持が「募金」に生まれ変わった「厚意」だと思う。
 こうして、もう一度、香山リカさんの書いた文章を読み返しながら、
 今回、ヤマギシ会に集まった「募金」を、純粋に社会のために自分の持てる能力を使おうと活動している若者たちに、「みんなの厚意として」託せたことが、ほんとうによかったと思っている。