肥沼信次という日本人

 今日の東京は、午前中は日差しもあったが、午後から曇り、3時過ぎには小雨。
 約一ヵ月ぶりの「お湿り」。
 今日もファーム町田店のスタッフに入る。


◇ファーム町田店入口に「梅の花
 お店の入口に、今日は梅の花が飾られた。
 この梅の花は、家庭菜園畑の土手からカワハラさんが枝を切ってきたものだろう。
 お客さんも、梅の花の前で立ち止まっていた。
      
      
      
 寒い寒いと言っていても、春の訪れの足音が聞こえるようだ。


◇今日のファーム町田店内のパン屋さん「カントリー」に並んだ焼き立てパン
      


◇肥沼信次という日本人
 ファーム町田店の客の入りも落ち着いた午後、休憩しようと部屋に戻ってテレビを点けたら『ドイツが愛した日本人〜佐々木蔵之介が巡る、ある医師の物語〜』という番組をやっていた。
 番組は、ドイツ北東部ポーランドとの国境に近い古都・ヴリーツェンから、東日本大震災の際に、義捐金が送られてことから始まる。
 そのヴリーツェンに、今でも多くの市民に慕われている第二次大戦直後のドイツで疾病対策に力を尽くし、若くしてこの世を去った日本人医師・肥沼信次がいたという。
 その肥沼信次の足跡を、俳優・佐々木蔵之介が巡る内容だった。
      
      
      
 番組が終わった後で、肥沼信次という日本人も詳しく知りたいと思って調べた。
『1937年、アインシュタインに憧れ放射線医学の研究者を志しドイツへ渡り、29歳で名門・フンボルト大学への留学を果たした肥沼信次。
 ナチスドイツの独裁が進むドイツで学んだ肥沼は、アジア人初の教授資格を得る。
 第二次世界大戦の戦況が悪化して、大使館から帰国指示が出るなかでドイツに残った肥沼は、戦後、ドイツ占領ソ連軍が創設したヴリーツェンの伝染病医療センター所長に任命される。
 当時のヴリーツェンではチフスが猛威を振るっていて、満足な薬もないなかで肥沼は、チフスに苦しむ人々に、献身的に治療し続けた。
 しかし、彼自身もチフスに罹患し、1946年に37歳でヴリーツェンで死去。』

 このような日本人がいたことを僕は知らなかった。

 この肥沼信次の下で看護婦や家政婦をした人や、命を助けられた人がヴリーツェンにはいまも現存し、我々を救った日本人として尊敬され慕われているという。
 それが、ヴリーツェンの学生たちによる自発的な東日本大震災義捐金に現れた。
 その人たちに会って、俳優・佐々木蔵之介が肥沼信次の思い出の話を聞いていた。