ヤマギシの村を離れても

 東京もだいぶ寒くなってきた。もう冬のコートを着ている人もいる。マフラーをしている女性も見かける。街路樹の葉も色づいてきた。
 高田馬場駅前広場の植木にもミニ・イルミネーションが付いた。
         
◇懐かしい人とメールのやり取りをする。
 20年前、僕と同じ時期に参画して、栃木のヤマギシの村にいたUさん夫妻。その奥さんから2日ほど前に会のアドレスにメールが届いた。
 Uさんとは参画するときも、参画してからも、よく語り合ったし、親しくお付き合いをしていた。
 Uさんは楽園村の事務局などもしていて、互いに「何とかしてよ」などと、困ったときには電話をする仲だった。
 10年程前に実家の宮崎に戻るときも、高田馬場によってくれて居酒屋で話し込んだのを覚えている。
 今は、彼の音楽的センスを生かして、宮崎でクラシックギター教室などを開いて「ちょっと田舎の有名人になっている」という噂は時々聞いていた。
 問い合わせは研鑽学校の開催日程についてだったのだが、答えるついでに懐かしさのあまり、こちらの近況を書いたり、Uさんの近況を訪ねたりしたら、早速、今日メールが届き、東日本大震災チャリティーコンサートを開いたときのyoutubeアドレスを教えてくれた。
        
 そこには、白髪が素敵な、ちょっとふっくらした、昔と変わらない笑顔のUさんがギター演奏している映像があった。
 元気なUさんに会えて、本当に嬉しかった。
 機会があったら、また語り合いたいと思う。


◇35年前頃に多摩供給所にいたというSさん

 午後3時過ぎ、「最近の資料でもあったらもらえますか」と、一人の男性が案内所を訪ねてきた。
         
 聞くと、35年程前、大学卒業後に参画していて多摩供給所にいたという。
 もう故人になったキノシタさんや、豊里実顕地にいるフジオカさん、多摩実顕地のタケイさん、シマダさんの名前をあげて、当時を思い返し、暫し、楽園村の草創期の頃にスタッフをやった話などを交えた当時のことを話してくれた。
 今は広島の方で福祉関係の仕事をしているという。東京にたまたま来たので寄ってみたとのこと。
 今年発行した会の機関紙「けんさん」を渡すと、その中の「あの人を訪ねて」欄に掲載されているフジオカさんを見付けて「ああ、元気なんだ。でも、ずいぶん年をとったなあ」と呟いていた。