今日のおしゃべりは「折々のことば」

 空梅雨である。
 今日の東京も30℃を超える暑さだった。
         
 明日から雨模様だとの予想だが、テレビの報道番組で、静岡県の安倍川では河道が途切れる「瀬切れ」が発生していると、川底が露出して水溜りになって流れていない映像が映し出されていた。
 6月からは鮎漁の解禁なのだが、「この半世紀で記録にも記憶にもない」と、川漁協の人がインタビューに答えていた。
 僕の大好きな「安倍川餅」だって、東海道の旅人が、安倍川の渡しでもって川越人足を待つ間に茶店で食べたのが由来というのだから、安倍川はいつも満々とした流れだったのだろう。


◇「折々のことば」から
 朝日新聞で毎朝連載している哲学者・鷲田清一さんのコラム「折々のことば」を、僕は楽しみにして必ず読んでいる。
 新聞を読めなかったときでも、後日、読んでなかった新聞を探して、そこだけは目を通す。
 「折々のことば」は、鷲田清一さんが若い頃からノートに書き留めた「ことば」や、様々な現場で見付けた「ことば」を紹介しているのだが、鷲田さんは「僕にとって『ことば』は、今までとは違う自分に変わるための、手がかりです。私の人生は、こういうもの、社会って、こういうこと――。誰しもそんな風に、自分なりのものの見方を持っていると思います。でも、もしかしたら全く違う見方が、あるのかもしれません。それに気づくきっかけになるのが、ことばです」と書いていた。
         
 18日の朝刊の「折々のことば」は、科学史・科学哲学者で、東京大学国際基督教大学名誉教授の村上陽一郎氏のことばを紹介していた。

『 誰かが見ているという意識を根拠にして、だからやらないんだという振舞(ふるま)い方は、私はちゃんと残しておいていい人間の姿だと思う 』(村上陽一郎

 鷲田さんは、この「ことば」に対して次の様に解説する。

『 「お天道様(てんとさま)」でも市井の人でもいい、自分よりすぐれた存在のまなざしを感じるということが、これだけはすまい、やりたくてもやらないという感覚を育む。「世間を蔑(さげす)んで孤高を誇るのではなく、世間に埋もれながら自分を高く持する」ためにこそ「教養」はあると、科学史・科学哲学の碩学(せきがく)は言う。著書「やりなおし教養講座」から。』(鷲田清一


 子どもの頃、よく母親から「お天道様はいつも見ている」と、嘘や偽りの行動を戒めるために、僕たち兄弟に言っていた。
 碩学とはほど遠い市井の人にすぎない母親だって、この「ことば」に何か大切なものが含まれていると思っていたのだろうが、僕も含めて、最近、こんな「ことば」を子ども達に言ったことはない。