今朝の新聞(朝日)は、なかなか読み応えがあった。
今日はちょっと時間があるので、ちょっと長くなるが、その2つの記事の抜粋と、1つの広告について記してみたい。
3つ共に、とても考えさせられる内容なのだ。
◇思想家でもあり武道家の内田樹さんは、
『考2016』に『成長もう望めない 公正な分配に焦点』と題したインタビュー記事の中で次の様に語っている。
今の時代を
「移行期です。地殻変動的な移行期の混乱の中にある。グローバル資本主義はもう限界に来ています。右肩上がりの成長はもう無理です。収奪すべき植民地も第三世界ももうないからです。投資すべき先がない。だから、自国民を収奪の対象とするようになった。貧者から吸い上げたものを富裕層に付け替え、あたかも成長しているかのような幻想を見せているだけです」
「左右を問わずメディアは『経済成長せねばならない』を前提にしています。大量生産・大量流通・大量廃棄のサイクルを高速度で回すことで経済成長するのが良いことだと信じている。でも、ぼくはそれは違うと思う。成長がありえない経済史的段階において、まだ成長の幻想を見せようとしたら、国民資源を使い果たすしか手がない。今はいったんブレーキを踏むべきときです。成長なき世界でどうやって生き延びてゆくのか、人口が減り、超高齢化する日本にどういう国家戦略があり得るのか、それを衆知を集めて考えるべきときです」
今の政治状況を
「民主主義というのは実は危険な仕組みであって、一時的な激情に駆られて暴走しやすい。現に、20世紀の独裁政権の多くは、ドイツでもイタリアでもフランスでも、民主的な手続きを経て合法的に成立したのです。だから、一時的な大衆的熱狂で議席を占有した政党が国の根幹に関わる制度や原理を簡単に変えることができないように、憲法があり、三権分立があり、両院制があり、内閣法制局があった。けれども、小泉政権以来、そうした行政府の暴走を阻止するための『ブレーキ』に当たる装置がひとつずつ解除されている」
先行きについては、
「歴史には必ず補正力が働きます。ある方向に極端に針が振れたあとは、逆方向に補正の力が働き、歴史はジグザグに進む。いまは針が極端に行き過ぎた後の補正段階に入っている。世界的なスケールでの『左翼のバックラッシュ』も、日本に見られた『暴走する老人とそれを制止する若者たち』という逆説的な構図もその兆候だとぼくは見ています」
◇DeNA創業者であり現在は取締役会長の南場智子さんは、
『教育は希望か』で、『もう「答えは一つ」じゃない』と題した記事て次の様に話している。
「問題の根幹は、教育のあり方にあると考えています。
その核心は、日本の教育システムが『答えは一つと考える、正解を言い当てる達人』を輩出し続けていることにあります。受験では相変わらず、正解が一つの問題を解くように求め、受験生も一つの正解を示すために努力を重ねています。それが、思考や発想の選択肢を奪っていると思います。
確かに、市場が右肩上がりに拡大していた高度経済成長の時代には『答えは一つ』でよかったかもしれません。競争力の源泉は、均一で高品質の自動車や電気製品を低コストで大量生産すること。間違えない達人を育てることは、高い経済成長を実現するために必要だったと思います。
しかし、時代は大きく変わり、答えが簡単に見つからない世の中になりました。複雑化する課題に向き合うには文化的な背景が異なる人とも協力し、痛みを伴う内容でも、強いリーダーシップで決断できる人材が求められています。」
◇強烈な広告
企業広告でいつも話題になる「宝島社」の今日の朝刊の広告は強烈だ。
2ページ見開きで、花が咲き乱れる緑濃い場所の水の中に横たわる樹木希林さんに「死ぬときぐらい好きにさせてよ」と言わせている。
人は必ず死ぬというのに。
長生きを叶える技術ばかりが進化して
なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。
死を疎むことなく、死を焦ることもなく。
ひとつひとつの欲を手放して、
身じまいをしていきたいと思うのです。
人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。
それが、私の最後の欲なのです。
以前にも、宝島社の企業広告で「ヒトは、本を読まねばサルである。」というのがあって、強烈に記憶に残っている。
今回の広告も、蓮見社長らしい宝島社の広告だと感心した。