神戸大での「共創」社会研究会シンポに出席

 1日・土曜日、神戸大学大学院国際文化学研究科の主催した「共創」社会研究会・第一回シンポジウムに豊里実顕地のソンジュン君と参加した。
         
 今回のシンポのテーマは、 
  コミュニティの「変容」と「共創」 ─ グローカルな視点から生み出す市民的公共性
             

◇講演1は、韓国ソウル市内で「ミソン山マウル(村)」というコミュニティのユ・チャンボックさんの話。
         
 ソウル市内の小高い山(丘)の自然を守ろうと集まり、植樹し、共同出資で保育園や子供の家、お店やリサイクルショップ、食堂や劇場なども運営しているコミュニティの様子と、ソウル市が進めているマウル共同体支援政策の話だった。
 それにしても、ソウル市の現市長が、このようなコミュニティづくり、住民主導の「まち共同体事業」を推進していると言うことにちょっと驚きだった。


◇講演2は、僕がいま注目している哲学者で立教大学教授の内山節さん。
         
 先にブログに書いた『新・幸福論』で述べられている「関係的存在としての人間」や、日本の村落にみられる自然と人間、生きている人間と死者、それらが統括的な、一体を感じられる日本の共同体の特徴を述べ、その伝統的考え方や仕組みを学びながら、それを回帰し、新しい視点や技術と融合させた社会づくりの必要性の話だった。
 この講演でも、何点か心に残ることを話されていたので、それについては整理して別途、書いてみたいと思う。


◇講演の後のシンポは4人の若い研究者による、2人の講演を聴いてのコメントと、それぞれの研究についての報告。
 その中に、案内を送ってくれて参加を誘ってくれたチョンさんも登場したのだが、それぞれの持ち時間が短く、ちょっと残念だった。
         
 写真は発表するチョンさんだが、最後にアメリカの宗教学者の言葉を引用して印象的なことを言っていた。
 ─ 「差異というものは、いつも異常なものではない。そして、普通というものが、いつも安全だとも言えない。非常に変わったように見えるあるクループは、まったく無害であり得る。外見的にとても普通に見えるグループが、かえって深く病んでいる場合もある。」 このことを、私はいろいろな共同体を研究するなかで強く感じた。いま、差異というものが生きられる転換時代。差異の連携の実験をしながら生きるコミュニティづくりの時代に立っている。 ─


◇夜は、場所を変えて、ワンプレートに料理を取り、それを食べながらのパネラーとの意見交換。
 さすがソンジュン君は、講演者のユ・チャンボックさんを始め、韓国から参加している数名の人達と韓国語で交流。
         
 いろいろな場で、いろいろな試みをしいる話や、コミュニティ内での死者との精神的なつながりなど、テーマは拡大し、話は尽きなかった。
 そんな話の中で、内山節さんが「コミュニティづくりで、ややもすると機能や効率を考えがちだが、それを優先すると結果的に上手くいかないのではないか。」ということを言っていた。


◇内山節さんが、今回の講演や質疑の中で言っていた、伝統的な日本の知恵から学ぶ必要がある「伝統回帰」の事例については、これからまとめて整理したいと思う。
 それは、多数決でない満場一致を目指す意思決定、自然と共に暮らす中では不平等が当たり前で、それを補完する考え方での平等観など、僕たちがヤマギシの中で実践していることにも通じるものを僕は感じた。