〝プライド〟についてのおしゃべり

 長野県のヤマギシの村・飯田実顕地で開催された「全国お父さん交流会」で、夜の研鑽会で準備メンバーが投げかけてくれたテーマが『男のプライド』だった。
       

 研鑽会とは面白いものだ。
 投げかけられた一つの言葉を、それぞれがイメージしている意味を出し合ったり、「あの時の気持ちがそうではないか」と実例を出しながら、その言葉の意味するところを掘り下げていくと、意外にも自分が想像していなかった捉え方に出会ったり、言葉に出来なかった思考がハッキリしたりする。

 今回投げかけられた『プライド』にしても、最近、考えたこともなかった言葉だ。
 中には「プライドなんて言葉を、若い人は使わないですよ。死語ですね。」と言う人もいたり、「プライドなどない生き方をしたい。」と言い切ってしまう人もいたり、いろいろだったが、僕は面白いテーマだなと、今日も考え続けていた。
       

 僕たちは、「男ならプライドを持て」とか、「プライドを持ちなさい」と、子供の頃よく言われた。
 「プライド」の意味を辞書で引くと「誇り、自尊心、自負心」とある。自尊心と言ったら、自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度と言う意味だから、あまりいい意味ではない。
 確かに、「プライドを傷つけられた」などと言う人もいるし、「そんなプライドなんか捨てなよ」と助言することもある。

 しかし僕は、研鑽会で考え、その後も考え続けて思うのだが、この『プライド』という言葉を、そう悪くは捉えていない。 
 それはなぜかというと、
 僕は、対相手との関係面で『プライド』という言葉を意味づけしていない。
 むしろ、自分自身に対しての心の在り方として『プライド』を持っていたいと思っている。
 僕は、僕自身が納得できる行動や判断をしたいと常々思っている。きっと、誰でもがそう思っているだろう。
 そんな時にこそ『プライド』という言葉で、自分自身の行動の判定基準に心したいと思っている。
 例えば、僕は子供の頃から俗に言う「三日坊主」とよく親に言われた。自分はそれを直したいと思いながら生きてきた。
 何かをやっていて、挫けそうになると「自分でやりたかったことではないのか。自分がやりたくて決めたことではないのか」と、挫けそうな心を心機一転しながら、やり続けていることも多々ある気がする。
 自分自身に対して、ここで辞めるのは「僕のプライドが許さない」と、自分が決めたことを、ここで辞める自分自身に納得できないという気持ちが湧き上がるのだ。
 僕にとって『プライド』は、対相手から自分を守ったり、誇ったりするためにあるのでなく、自分がそうしたいから意識し、そうなりたいから持つものだと思っている。 
 「こんな生き方をしたい。こんな生き方が出来る自分になりたい。」と思って、自分が選んだ今の人生に、僕は自分自身が納得できないまま、他の生き方を求めようと思わない。
 まして、何々のせいだと、外に理由を求め、自分自身を納得させて、挫折した心をオブラートに包み、再スタートしたいとも思っていない。
 どんな時でも、自分自身の心の揺れに対して『プライド』をもって生きたいと思うのだ。
 しかし、「そんなに頑張らなくってもいいのに・・」と言われかねないので、これも、我執や思い込みと紙一重のところで存在するのかも知れないと、心しなければと思っている。

 自分に納得できる生き方として、もっと『プライド』について、特に僕は男だから『男のプライド』について、これからも考え続けたいと思う。
 蛇足になるが、スポーツ選手が競技を終わった後に「自分に納得できる力を出せませんでした。」とか、俳優が「納得できる演技が出来なかった。」と言う言葉をよく耳にする。
 僕は、そんな心境の中に、その人の内なる『プライド』を感じるのだ。