G7広島サミットの会場「宇品島」についてのおしゃべり

 現在行われている先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)の会場となっている「グランドプリンスホテル広島」は、広島湾に浮かぶ宇品島にある。

    

 この宇品島は日本における戦争の歴史に深く関わった島である。
 明治27(1894)年の日清戦争から昭和20(1945)年の太平洋戦争終結までの約50年間、旧宇品港は日本陸軍の重要拠点となった港で、ここから中国大陸や南太平洋に兵士を送り出したり、物資を供給したりする基地であったのだ。

 

 そんな歴史を持つ宇品島を僕が知ったのは、一昨年末に大佛次郎賞を受賞した堀川惠子著『暁の宇品』である。
 ぜひ、この機会に、日本の近代歴史に興味のある方は、この著書を読まれることをお薦めする。

    

 昨年1月にこの著書の読後感想をブログに書いたが、ここでもう一度、転載させていただく。

 著者の堀川惠子さんは「人類初の原子爆弾は、なぜ〝ヒロシマ〟に投下されなくてはならなかったのか。本書の取材は、このシンプルな疑問を突き詰めることから出発した。」と序章に記している。

 堀川さんは「多くの人は、広島が国内有数の軍事都市であったと答えるであろう」としながら、それ以上に、広島には他の都市にはない特殊な事情があったと、アメリカが原爆投下候補地を選定するための「目標検討委員会」の議論から導き出す。
 広島の特殊な事情とは「軍隊の乗船基地」である。「広島の軍隊の乗船基地といえば、海軍の呉ではない。陸軍の宇品である。日清戦争を皮切りに日露戦争、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争と、この国のすべての近代戦争において、幾百万もの兵隊たちが宇品から戦地へと送り出された。」「何度も討議が重ねられた目標検討委員会で、広島が一度たりとも候補から外されなかった理由。それは広島の沖に、日本軍最大の輸送基地・宇品があったからである。」という。

 アメリカは日露戦争の直後から日本を仮想敵国として「国土の四方を海に囲まれた日本は、平時から食料や資源の輸入を船に頼っている。戦争になれば戦地に兵隊を送り出すのも、戦場に武器や食料を届けるのも、占領地から資源を運んでくるのも、すべて船。シーレーン海上交通網)も長い。その日本を屈服させるには、輸送船や輸送基地を攻撃することが効果的である」と研究し尽くしていた。

 その日本において、他国の戦地へ兵隊を運ぶ任務、その後方部隊としての兵站任務はすべて船舶でありながら、それは船舶を有する海軍でなく「陸上の部隊であるはずの陸軍が海洋で船舶を操るという世界で例を見ない」貧弱な輸送体制となっていた。

 そのために陸軍は民間から輸送船や貨物船、漁船、その船員の徴傭で賄い、攻撃されたときの武器もない船舶で戦争に突き進むと言った兵站軽視の戦術戦略だった実態、さらには陸軍と海軍の明治維新以降も続いていた藩閥の弊害など、無謀な戦争へと突き進み多大な犠牲を強いた日本軍上層部の姿をあからさまに検証している。

 本書の構成は、広島市の宇品にあった陸軍船舶司令部、通称「暁部隊」を主たる舞台に、太平洋戦争前までの陸軍船舶部隊の推移実態を、基地の近代化や中国戦線での上陸作戦に手腕を発揮し「船舶の神」とまで呼ばれた田尻昌次中将司令官を通して描き、後半は原爆投下時に司令官だった佐伯文郎中将の、独自の判断によって被爆地への宇品全部隊を動員しての敏速かつ的確な救援活動の展開を描いている。

 今まで語られることのなかった二人の高潔な軍人。
 彼らの勇気と英知と、現場を知らない机上の作戦を強行する参謀本部との板挟みの葛藤など、それらの実態を防衛研究所や遺族宅に残された自叙伝、手記、日記、関係者証言で、当時の軍隊内部の実態を、詳細にリアルに再現している。

 本書終章で堀川さんは、田尻昌次・元中将司令官の自叙伝に記されていたことを最後に紹介している。
「四面環海のわが国にとって船舶輸送は作戦の重要な一部をなし、船舶なくして作戦は成立しなかった。船舶の喪失量が増大するにつれ、作戦は暫時手足をもがれ、国内の生産・活動・戦力を喪失し、ついに足腰の立たないまでにうちのめされてしまった。兵器生産資源及び食糧の乏しいわが国がこのような大戦争に突入するにあたりては、かかる事態に遭遇するの可能性について十分胸算用に入れておかねばならぬ重大事項であった。」
 日本にとって太平洋戦争は、「兵站軽視」という実態での負けるべくして負けた戦争であった歴史的事実が、本書によって検証されているのだ。