國分功一郎著『 暇と退屈の倫理学 』を読む

 先日、三重のヤマギシの村に出張したときに、先日ブログに感想を書いた「ルトガー・ブレグマン著『 Humankind 希望の歴史 』」を紹介してくれたさんが「次はこれを読もうと思っている」と教えてくれたのが、この本だ。
 僕も早速、メルカリでこの文庫版を購入して読んでみた。

    

 著者は哲学を専攻する東大教授である。この文庫の「増補新版のためのまえがき」で著者は、「哲学とは、問題を発見し、それに対応するための概念を作り出す営みである」と述べ、ここで取り上げる問題を明確にしている。


・我々は妥協を重ねながら生きている。何かやりたいことをあきらめたり、何かやるべきことから眼を背けているだけではない。
・そのように感じられる何ごとかについて、「まぁ、いいか」と自分に言い聞かせながら、あるいはむしろ、自分にそう言い聞かせるように心がけながら生きている。
・その問題は「暇と退屈」という言葉で総称されている。本書は暇と退屈の問題への取り組みの記録である。
・人の生は確かに妥協を重ねる他はない。だが、特に人は妥協に抗おうとする。哲学はその際、重要な拠点となる。問題が何であり、どんな概念が必要なのかを理解することは、人を、「まぁ、いいか」から遠ざけるからである。

 

 この本は確かに哲学書ではあるが、実に親切に優しく論述の展開をしてくれて考えさせてくれた。
 「暇とは何か」「退屈とは何か」、「暇」と「退屈」を明確に分類して、
・資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、それの暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分が好きなことが何なのか分からない。
・そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。
・かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。高度情報化社会という言葉が死語となるほどに情報化が進み、インターネットが普及した現在、この暇の搾取は資本主義を牽引する大きな力である。
 と、「何となく暇だなあ」とモヤモヤしている、あるいは日常生活の多忙に誤魔化されて、人としての本当の生を考えようと気づかない我々に対して、「暇と退屈と、どう向き合うべきか」を論じている。

 例えば、その「暇の搾取」は我々が気付かないうちに浸透している「消費行動」であり、レジャー産業から次々に提供される「暇つぶしのパッケージ」なのだ。しかし、それは「消費」であるために、我々に「暇つぶし」を与えるが、決して「満足感」を与えてはくれない。人は退屈することを嫌い、暇を何に使えばよいのか分からない。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。


 そう言われると「あれは本当に、自分が好きなことだったのか?」と、自分の行動を立ち止まって考えてしまう。

 ここでスポットを当てている「暇」と「退屈」を考えることは、人間の生き方を考えることなのだと、随所で立ち止まらせてくれる。

 本書は、このように身に覚えのある事柄や、日頃の行動に「暇」と「退屈」と言うキーワードを通して、自分のものの見方や行動に「本当はどうか」と問い、日常の習慣(今までやってきたこと)がいかに自由に考えることを妨げ、人間らしい生を得ることを妨げになっているかを考えさせられる連続なのである。

 著者は最後に、結論だけを知ったからと言って「分かった」ことにはならない。「分かる」とはどういうことなのか、「大切なのは理解する過程である。そうした過程が人に、理解する術を、ひいては生きる術を獲得させるのだ」として、通読し、論述の展開を読者が共に経験することが大切だと述べている。
 僕も、数多くの付箋をしながら読んだが、まだ、未消化であるため多くを記すことはできないし、僕が記すことで本書をこれから読んでみようとする人の理解の妨げにもなりそうなので、ここまでにする。
 とにかく、読み応えのある、考えさせられる書籍であることは確かなので、お薦めする。

 僕も、この内容をもっと咀嚼して考えたいと思う。

 いま、僕たちに必要なのは、日々の変化、状況の変化に対して、どれだけ自由にものを考え、楽しくこれからを発想できるか、それが問われているからである。

 著者は本来「人は考えることが嫌いである」という。

 しかし、人がものを考えざるを得ないときがある。自分たちを取りまく「環世界」に何か新しい要素が発生したときである。多かれ少なかれ習慣の変更を迫られる。それまで自分の生を導いてくれていた習慣が破壊される。それを受け入れなければこれからはない。

 いま、僕たちはそんな状況にいるのではないか。