外岡秀俊著『北帰行』を読む

 外岡秀俊著『北帰行』をやっと読み終わった。
 書籍紹介に「啄木の人生と自己の青春とを、抒情的かつ重厚な文体で描く」と記されているだけあって、端正な美しい文体の内容の濃い書籍だったので2度読みしてしまった。

 この『北帰行』は、昨年暮れに亡くなった元朝日新聞社東京本社編集局長・外岡秀俊さんが東大法学部在学中に書いて、河出書房新社が主催する新人向けの文学賞である「文藝賞」を受賞した作品である。誰もが作家の道を進むかと期待されながらジャーナリストとして生きた外岡さんの処女作が、追悼の意味も含んでか今年9月に文庫で復刊された。

     

 この『北帰行』の中で外岡さんは、叙情詩人で若くして亡くなった歌人である石川啄木の生い立ちと、吟遊詩人として転々とする北海道時代の足跡を辿りながら、真の啄木像を描いている。
 外岡秀俊さんは1953年生まれ。僕より5歳若いが同世代。僕も啄木の歌に接したのは中学3年の頃だったと記憶している。そして一時期、僕もまた啄木に傾倒していたことがあるので、興味を持って読んだ。

 啄木は「ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな」と詠んでいながら、彼が育った渋民村を追われている。

 この著書の主人公「私」もまた、北海道の炭鉱街という故郷が、斜陽化する炭鉱の近代化を急ぐ中での父親を巻き込んだ炭鉱事故のために、故郷から集団就職という形で出ざるを得なくなる。
 「私」は啄木を追放した渋民村を訪ね「彼が死んでから六十年、生まれてからだと九十年近くも歳月が流れたのだから、むしろ変わらない方がおかしかったろう」と雪野原に立ち並ぶ啄木の故郷を冠した広告塔や、ドライブインレストハウスの屋根に大書きされた彼の詩集の題名「一握の砂」という看板に戸惑いながら、「私」は「この十年という月日そのものが許せなかった」「この国が直面したことは、古いものが新しいものに取って替わるという自然な新旧交代ではなかった。少なくも、そうした自然なリズムが、古いものがその対立物である新しいものに姿を変え、いつも古いものの生命を新しいものの活力が汲み上げるようには、この十年は進行してなかった。それは新しいものが古いものの上にぴったりと密着してその息の根をとめ、そのいのちを奪い取る過程ではなかったろうか」と、都会のどんな路地裏もアスファルト化し、故郷の幹線道路脇の岩肌はコンクリートが吹き付けられている様など、その時代の高度成長による近代化を問う。

 そして「ふるさととは、故郷から追い出されることの痛みであり、啄木がふるさとの歌人になったのは、生まれながらにして村から拒絶されていたためなのだ」「この国の人間なら誰もが抱いている懐かしく美しい故郷のイメージとは、流浪する人々の心の痛みによって支えられてきた幻想だったのではないだろうか」とし、抒情詩人としての啄木と、社会主義者無政府主義者としての啄木をどう考えたらいいか、様々な批評がされている啄木像に対して、著書の外岡さんは主人公の「私」に啄木の足跡を辿りながら追わせる。

 その啄木の北海道時代の足跡と「私」の北帰行から「啄木が大逆事件に異常なまでの関心を抱いてその真相を究明したのは、彼が一人のジャーナリストであったためというばかりではないだろう。彼は詩人であったからこそ、国家の犯罪を糺明せずにはいられなかったのではないか。言葉と行為の距離を見詰め続けない表現が、忽ちのうちに腐蝕していくという冷厳な事実を、大逆事件は突き付けていた。彼はくらしの中にできた歌の小径を通って、無政府主義に就いたのだった」と、啄木の「われは知る、テロリストの悲しき心を/言葉とおこなひとを分かちがたき/ただひとつの心を」という晩年の詩の心情に辿り着く。

 そんな叙情詩人としての啄木の「真の啄木像」を、炭鉱街で育った三人の男女の幼少時と、そこを離れて高度成長という荒波に翻弄されながら成人となった、数々のエピソードを織り込みながら描いている。