我が町・町田市は自由民権運動が盛んだった

 我が家から車で15分ほどのところに「町田市立自由民権資料館」がある。
 市の広報紙に、明治時代の自由民権運動で、現在の町田市を拠点に活躍した4人の活動家を紹介する企画展『町田の民権家たち』を開催中だというのを知って行ってみた。
 
 自由民権資料館は、鎌倉街道と芝溝街道が交差する近くの芝溝街道沿いにたたずむ、白壁に圧倒される立派な建物なのだ。

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 自由民権運動が盛んだった明治10年代、現在の町田市を含む南多摩郡は、北多摩郡西多摩郡とともに神奈川県に属していた。
 神奈川県は武蔵国のうちの6郡と相模国9郡により構成されていて、神奈川県内の自由民権運動は、武蔵・相模で分かれて展開。
 ここ町田は、武蔵国相模国の境界線にあり、神奈川県全体の中心部に位置し、県全体を束ねるのに最も適した地理的位置にあった。
 その神奈川県の運動を1つにまとめ上げようと呼びかけたのが町田市域の民権家たち。

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 幕末には新選組甲陽鎮撫隊など幕末の激動に身を投じ、明治前期には神奈川県自由民権運動の最高指導者である石阪昌孝。(石坂は文学者・北村透谷の義父でもある)
 幕末から明治前期に、政治活動とともに地域経済の活性化に奔走した青木正太郎
 石阪昌孝の後継として大正期の政党政治で活躍する一方、青木とともに経済振興にも尽力した村野常右衛門
 地方行政・政治の場で奔走し、文化人としても足跡を残した細野喜代四郎

 これら活動家は、幕末から明治時代には名主などを務めた地域のリーダーである。


 ではなぜ、神奈川県、特に町田市域の自由民権運動は盛んだったかというと
 開港場横浜を抱えた神奈川県は、欧米諸国の文物に触れる機会が多く、最も影響を受けやすい環境にあった。
 当時の輸出品の多くを占めていた生糸の産地・集積地である八王子から横浜港へと運ぶルートの町田街道は、『絹の道』とも呼ばれるように、その沿道の豪農など村の有力者たちは時代の移り変わりに敏感であった。

 このような背景で、当時活躍した地域のリーダーたちの事績や関連する史料が展示されていた。

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 この展示の中に、ちょっとミーハー的興味がある展示があったので記しておく。

 現在のJR横浜線である当時の私鉄「横浜鉄道」の敷設に尽力した野村常右衛門のコーナーに、開通したときの「時刻表」が展示してあった。

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 当時、生糸の運搬は荷馬車であったために、八王子や甲信地方で生産された生糸を横浜へ輸送することを目的として敷設。
 当時の駅は、東神奈川駅小机駅中山駅長津田駅・原町田駅(現在の町田駅)・淵野辺駅橋本駅相原駅八王子駅で開業。

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 明治42年。
 では、八王子から東神奈川まで、どれくらいの時間を要したか。
 八王子駅5:45発 → 原町田6:28着 6:30発 → 東神奈川7:13着
 とあるので、1時間半弱である。
 現在は、快速で47分、 各駅停車で56分であるが、思ったより速く走っていて短時間だったと驚く。

f:id:naozi:20210116190923g:plain 町田は、縄文時代弥生時代の遺跡も多いし、新選組の近藤や土方と交流があった豪農や武芸に励んだ神社もあるし、そして明治時代の民権運動と、なかなか興味ある歴史に触れることができる。