木内昇著『櫛挽道守(くしひきちもり)』を読む

 いらない本をメルカリに出品しようかと思って本棚の整理をしていたら、木内昇『櫛挽道守(くしひきちもり)』が出てきた。
 かなり以前、6~7年前に読んだ本だ。
 その時、感動した記憶が蘇って、もう一度読んでみた。

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 逆境や逆風に逆らうでもなく、女として生まれた運命と耐え、納得しながも、櫛挽き職人の父の技「お六櫛づくり」に魅せられて、女はタブーとされていた櫛挽き職人となり、父の技をただひたすらに身につけようとする主人公・登瀬の物語である。


 この小説に出てくる「お六櫛」は、長野県木曽郡木祖村薮原で生産される伝統工芸品なのだが、その技術が、このような生活の中で脈々と引き継がれていたということに、読み終わったあとで、静かな感動を覚えてしまう。

f:id:naozi:20201122111143j:plain物語は、このような描写から始まる。
 「歩を進めると、足下の雪が鳴いた。登瀬は、音に耳を添わせて数を唱えはじめる。
 ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう。
 つぶやく声が、等しい間合いをとって足音に重なっていく。右手に手桶を抱え、前のめりに進むうち、山際から朝日が顔を出した。白一色に塗り込められた村の景色が、途端に息づいていく。
 雪を踏む音は蛙(げろ)の鳴き声に似とる、と歩きながらも登瀬はちらりと思うのだけれど、考えが膨らみそうになるのをひとつ深呼吸して追い払い、頭の中を真っ白にする。そうしてただ、身体で拍子を刻むことだけに心を傾ける。
 十二、十三、十四。

 

 これは、櫛挽のリズム(拍子)を身体に覚えこませようとする登瀬の姿である。早朝の日課の水汲みの時でさえ、登瀬はそのリズムを必死に身体に刻み込もうとしている。

f:id:naozi:20201122111143j:plain小説の詳しい内容と展開は、読んでいただくとして、伝統技術を継承している職人としての心のあり方が、僕は心に残った。
 そして、櫛挽きでは神業とも言われる父・吾助の言葉が光る。
 「父さまも爺さまもおらと同じ格好で、同じ加減で櫛を挽いて生きたずら。おらは技を先代から借りとるんだ。だから次にそのまま繋がねばならんだに。それは誰にでも託せるものではないだに」と言って、娘・登瀬の父の技を習得したいという心情を察し、娘の幸せを考えない酷い父親だと非難されながらも、登瀬の縁談を断る。

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 そして物語の後半では、老いて櫛挽くことも出来なくなった吾助の技継承を心配する妻に、
 「おらの技はもう登瀬の内にあるで。すべて、登瀬の内にある。だで、登瀬が誰かにそれを授ければ、この技は必ず続いていくだに。おらはなんも案じとらん」と吾助は言う。
 物語の最後が、実にいい。胸を撫で下ろしてページを閉じることが出来る。
 成り行きで女の運命と諦めながら結婚して、違和感を抱いたまま子まで産んだ登瀬が、夫の本音をやっと知るのだ。
 「あんたはあんたの、わしはわしの櫛を挽く。これからずっとや。好敵手がこの板ノ間の中におらんと、わしがつまらんさけな。いてもらわな、困るんや」と言う夫の言葉に、登瀬はやっと夫と通じ合えたと思える。
 そして、仕事場の板ノ間の隣の部屋で臥せっている吾助は、
 「ええ拍子だ」「ここにいるとよく聞こえるだに。櫛挽く音が」「われやん夫婦の拍子はとてもええ。銘々の拍子だで、揃ってないだども、ふたつ合わさるとなんともきれいだ。こんねにきれいな拍子をおらは聞いたことがないだに」と呟くのだ。

 

 そしてこの小説で、著者は「居場所」というか「帰るべき場所」が、ある、見つけられる、ということが、人の幸せには大切な要素だということを、大きなテーマにしていることを感じた。


◇木曽の伝統工芸品の「お六櫛」について、ちょっと知りたくなったので調べてみた。 
 中山道随一の難所といわれた「鳥居峠」の南に位置する薮原宿は、江戸時代には「中山道どまんなか」の宿場であり、東西の接点として、また飛騨街道の追分として交通の要所。 その薮原宿で「お六櫛」が作られるようになったのは、江戸時代の享保年間とされる。
 ずか10cmにも満たない幅に、およそ100本もの歯が挽かれたみねばりの小さな櫛は、江戸時代から中山道の名物、御嶽信仰善光寺参りの土産として全国に知られていた。
 現在でも、薮原宿を中心に作られているお六櫛は、実用品の櫛であるとともに長野県伝統工芸品として愛され続けている。

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 一口に「お六櫛」と総称しているが、その種類は多岐にわたり、お六櫛はその用途と機能から大きく4種類に分けられる。
 この小説で、吾助や登瀬が挽くのは、梳き櫛といって、髪の垢、フケをとるなど、髪の汚れやホコリをとるために梳くのに用いる櫛だ。

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