古典芸能の文楽(人形浄瑠璃)を描いた2つの小説

大島真寿美著『 渦 妹背山婦女庭訓 魂結び 』を読み終わった。
 この小説は、江戸時代、大坂の道頓堀で活躍した実在の人形浄瑠璃作者・近松半二の生涯を描いたものだ。

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  儒学者の穂積以貫の次男として生まれた成章は、父に連れられて物心つくかつかないうちから道頓堀の竹本座に通う。賢かった成章は繰浄瑠璃にのめりこむ。それを嘆く母親から逃れて家を出て、名前も近松門左衛門にあやかり近松半二と変えて浄瑠璃作者となり、ついには竹本座の立作者となる物語なのだ。


 後半は、彼の代表作『 妹背山婦女庭訓 』が、どのようにして生まれ、その魅力がどこにあるか、晩年の近松半二がどのような世界に生きていたのか、さらには、人形浄瑠璃の栄枯盛衰を、関西弁の語りで描いている。

 

三浦しをん著『 仏果を得ず 』を以前に読んだ。
 僕が江戸時代に隆盛した古典芸能の文楽人形浄瑠璃)に興味を持ったのは、三浦しをんが書いた『 仏果を得ず 』を読んでからだ。

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 この物語は、若い義太夫文楽の修行を通して、芸事に悩み、恋に悩みながらも成長していく姿を描く青春小説なのだが、8話からなる連作短編的各章は、人形浄瑠璃の名作を取り上げ、登場人物の行動と、主人公の実生活や心境とが微妙に重なり合って、文楽人形浄瑠璃)作品などほとんど無知な僕でも、作品の中味が分かる仕掛になっている。
 そして、それら人物達の人間模様から、古典芸能としての文楽の世界が理解でき、その世界に引き込まれる小説だった。

 

文楽人形浄瑠璃)を初めて観賞したのが『 妹背山婦女庭訓 』
 三浦しをんの『 仏果を得ず 』を読んで、文楽に興味を持った僕が、初めて人形浄瑠璃を実際に鑑賞したのは、東京国立劇場での公演だった。

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 その時の演目が『 妹背山婦女庭訓 』だったということもあって、今回、大島真寿美直木賞作品『 渦 妹背山婦女庭訓 魂結び 』を読んだという次第。

 もう5~6年前のことだが、その時の感想をブログにこのように書いた。
 「文楽の演技は浄瑠璃語り、三味線弾き、人形遣い三者で成り立っているのだが、さすが日本が誇る古典芸能だ。浄瑠璃語りと三味線弾きの迫力がすごい。人形遣いもまた、一体の人形を、主遣いと黒子2人の3人掛かりで操るのだが、細かい動きが、まるで人間が演じているような情の世界を感じさせる。
 汗だくになって全身で浄瑠璃語りをする姿、張り詰めた表情を崩さずにバチに力を込める三味線弾きの姿、人形になりきって足を鳴らしながら動く人形遣いの姿。僕は、本当に感動した。」

 

 その後、文楽人形浄瑠璃)に触れたのは、赤坂サカスのACTシアターでやった「能」と「文楽」のコラボレーション。
 能の『 翁 日吉之式 』の上演と、文楽の『 二人三番叟 』を上演だった。

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 大島真寿美はあるインタビューの中で「テレビも映画もなく、誰もが文字を読めるわけでもなかっただろうあの時代、芝居は庶民にとって唯一夢中になれる虚構の世界だったはず。」という。

 この2つの作品を読むと、確かに江戸時代の庶民にとっては、人形浄瑠璃や歌舞伎が唯一夢中になれる娯楽を伴う虚構の世界だったことがよく理解できる。