角幡唯介著『 漂流 』を読む

 沖縄・宮古島の佐良浜の漁師の生き様を追った長編ノンフィクション。

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 1994年、沖縄のマグロ漁師・本村実は、8人のフィリピン人船員を率いてマグロ漁に出て遭難。救命筏で37日間の漂流したすえに奇跡の生還をした。
 しかし彼は、九死に一生を得たにもかかわらず、その8年後に再び漁船に乗って海に出て消息を絶つ。
 その漁師・本村実を、そこまで呼び込む「海」とは何なのか。本村実を、そこまで駆立てさせるものは何なのか。
 筆者は、佐良浜出身の漁師、マグロ漁業関係者、37日間の漂流仲間たちと発見救出にかかわった者など、沖縄、グアム、フィリピンなどで数多くの関係者を取材し、さらに実際にマグロ漁船にも乗船しながら、「海」と、そこで生を営む「漁師」の、陸に住む人間には理不尽とも思える関係性を探り当てようとする、読み応えのある物語だった。

f:id:naozi:20200519211653j:plain 著者はノンフィクション作家であるが、その前に冒険家である。

 彼自身が探検しながら書いた作品の数々は、開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞新田次郎文学賞講談社ノンフィクション賞毎日出版文化賞など、多くを受賞している。
 その著者は、本書の中で「危険を承知の上で冒険」を敢えてするのか、その心情を述べている部分があり、示唆に富んだ記述なので紹介する。
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 私が北極やヒマラヤの辺境のようなところに冒険旅行をくりかえすのは、日常生活のなかで死を感じられなくなったからだと思っている。消費文化の価値観にどっぷりと浸かった現代の都市生活においては生や死のいっさいは漂白され、われわれの目には見えなくされている。生や死を想起させる風習、肉や血などの生々しい物体、生きていること自体に由来する汚らしくて猥雑な空間などはすべて忌避され、隠蔽され、私たちはアルファベットの横文字がならんだ、消臭剤の匂いが漂ってきそうな清潔で小ギレイな居住空間で日常をいとなんでいる。生は肉体という物理的な有機物によって生存期間が限定されており、死が不可避であるにもかかわらず、その死を具体的に想像できない空間のなかに私たちの生はとじこめられているのである。
 本来の生というものは死を感じることができなければ享受することができないものである。科学技術や消費生活が進展することで都市における生は便利に、安逸になり、快楽指数も上昇したが、そのことによって私たちが知ったことは、日常が便利で快適になることと、自分の生が深く濃密になることとはまったく関係がないということだった。現代の都市生活者は死が見えなくなり、死を経験することができなくなることで、死を想像することもできなくなった。そしてその結果、生を喪失してもいる。
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 このように述べて、日常の暮らしのすぐ脇に具体的な「死」があることによって、「生」の輪郭はかたちづくられ、日常のなかで、その場、その瞬間にゆらぐことなく存在できるのだろう。と「死」が近くに感じられる「生」の貴重さを述べている。

f:id:naozi:20200519211653j:plain このような事を記していると、現在の新型コロナウイルスのことも、「消費文化の価値観にどっぷりと浸かった現代の都市生活」や「科学技術や消費生活が進展することで都市における生は便利に、安逸になり、快楽指数も上昇した」なかでの我々の営みに対する〝警告〟なのではないかとも思えてくる。

「生は肉体という物理的な有機物によって生存期間が限定されており、死が不可避である」と意識し「生」を全うすることを、今回の新型コロナウイルス騒動で感じた人も多かったのではないか。