熊谷達也著・文庫『 邂逅の森 』を読む

 これは、東北の険しい山々に住む獣、熊、ニホンカモシカなどの狩りをするマタギの物語である。

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 単行本で出版されたのは2004年で、直木賞山本周五郎賞を受賞した作品だ。

 2006年末に文庫化されてから、すでに第16刷と重版されているのだから、多くの読者の心を掴んでいるのだろう。
 文庫解説には、今月6日に亡くなられた作家・田辺聖子さんの絶賛している文章が載っている。
 その一部を抜粋すると「何気なく本のページをくりはじめ、そのうち、どんどんと内容に引きこまれて、ページを繰るのも、もどかしい、ということがある。/本書の『邂逅の森』もまた、そういう小説の一つである。/マタギという山の狩人の名は、いつとなく私も知っていた。そのマタギの話だ。険峻な山々に住む獣を追って狩りをする猟師たち」「本書の『邂逅の森』にめぐりあえて、よかった。私はこの小説によって、親愛なる狩人、マタギたちの人生や、東北の地の雪、氷、嵐、アオシシ(ニホンカモシカ)や熊の体臭、咆哮を、身近に感ずることができた。/書物(ほん)は尊むべきかな。/活字の伝えるいのちの何という威力(ちから)」「本書によって、マタギたちはよみがえり、永遠に生きることになった。小説の徳を思わないではいられない」と、このように評している。

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 確かに読み始めたら引き込まれる。
 マタギの狩りの次の様な描写で物語は始まる。
    ── 獣を殺(し)める旅だった。
    大正三年の冬、松橋富治は、年明けも間もない山形県の月山麓肘折温泉から深く入り込んだ山中で獲物を追っていた。
    連なる山魂は、見渡す限りの雪また雪。目につくものといえば、葉を落として風雪に耐えるブナの木々くらいのものだ。蠢く生き物を拒絶しているように見えるこの世界にも、やがて時が来れば、雪解けとともに春がやってくるとは、とうてい信じられない光景である。
    しかし、この山にも、よくよく目を懲らして岩の忍耐を持って見つめれば、深緑の季節とまったく変わらなぬ数の獣がいる。その中には、地中で息をひそめ、菜食を絶つことで生き残りの戦略を獲得した獣がいる。一方では、人間には食えないものを消化する胃を備え、幾度も反芻しながら飲み下して命を繋ぐ獣もいる。 ──

 物語はこの後、富治達マタギは、このような厳冬の山の中でアオシシ(ニホンカモシカ)を見つけ、頭領の厳格な指揮の下でのチームワークを駆使して狩りをする様子がリアルに描かれていて読む者を圧倒する。

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 主人公の松橋富治は、明治23年に秋田県北秋田郡マタギの子として生まれ育ち、14歳で初マタギを経験するのだが、物語はこの冒頭の描写の大正3年、彼が数え25歳から始まり、波瀾万丈の人生を歩み、一度離れたマタギの生活に再び戻り、彼が45歳を過ぎた昭和10年、通常ならマタギでさえも狩りを避ける山の神が宿っているといわれる「ヌシ」と呼ばれる巨大な大熊と、ただ一人で死闘を繰り広げ、右足を喰われ、体中に傷を負いながらも妻が待っている、谷あいの小さな村に帰ってくるという巻末までの、マタギとして生きた富治の一生を描いた作品だ。

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 この作品の舞台となっている明治から大正にかけては、日本は戦時需要に沸き近代化へ進んでいく時代である。しかし、耕作面積の少ない東北の貧しい山村では、厳しい自然を相手に狩猟を生業とするしかない。特に秋田地方の山間に住む猟師の一団・マタギは、山の神への敬虔な信仰を持ち、猟に入山する一週間前から冷水を浴び身を清める水垢離(みずごり)や女絶ちをし、狩猟中は山言葉を使い、頭領の指揮下に古来の伝統を守って狩人生活する。
 一方、戦時需要と近代化産業のエネルギーとして隆盛をみる山形県の大鳥鉱山を始めとする鉱山産業も労働者の需要が高い。
 主人公の富治は、村の有力者の娘と恋に陥り、密会を繰り返し子を孕ませてしまい村を追われ、マタギを離れて鉱山に身を置き、時代の波に翻弄されながら鉱夫として生きる。しかし、マタギとしての血が騒ぎ、再びマタギの生活に戻るというストーリー。

 著者は、良くここまで取材したと思われるほどの緻密さで、マタギの生活同様に当時の鉱山産業の過酷な労働者の生活をも、リアルに描ききっている。
 そんな意味からも、狩猟を生業にして生きざるを得なかったマタギの実態と、近代化という波に翻弄されながら過酷な労働に耐えて生きなければならなかった鉱山労働者、その両方の当時の実態を知り得る貴重な小説となっている。


 本書を読み終えると、先に述べたように田辺聖子さんが書いている「書物(ほん)は尊むべきかな。活字の伝えるいのちの何という威力(ちから)」を改めて感じざるを得ない。