真藤順丈著『 宝島 』を読む

 この物語を、ジュンク堂書店那覇店の森本浩平さんは「米軍施政下の時代に翻弄されながら、立ち向かい、熱く生き抜いた沖縄の若者たちを描く超大作! そして現代に続く基地問題を知る必読の書!」と紹介している。

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 物語の舞台は、沖縄における戦後から本土返還までの二十年の米軍統治下時代だ。
 その時代の沖縄で、幼馴染のグスク、ヤマコ、レイという男女3人が固い絆に結ばれながらも、不可抗力的な、理不尽な米軍統治の時代の流れに翻弄されながら、グスクは警官になり、ヤアコは女給をしながら教員免許を取って教師になり、レイはアウトローの世界で、それぞれが前向きに生きる3人の青春時代の物語だ。

 物語の始まりの状況を筆者は次のように書く。
「ただでさえ沖縄人は、でっかい命びろいを経てきているからね。/だれでも知っていることだよ、世界の半分がもう半分と戦争をした。/ものすごい数のアメリカーが海から上陸してきて、沖合につめかけた艦隊は地形が変わるほどの砲弾を撃ちこんだ。島民の四人にひとりが犠牲になったあの地上戦で、だれかの亡骸をまたがずに走れない焼土を逃げまわり、避難した洞窟(ガマ)から追いだされ、手榴弾火炎放射器におびやかされた。グスクもレイもヤマコもオンちゃんも十四歳になっていなくて、鉄血勤皇隊にもひめゆり学徒隊にも徴集されなかったけど、九州や台湾への疎開組にも入らずに、〝鉄の暴風〟と呼ばれたあの艦砲射撃をそれぞれが体験していた。ある島民の言葉を借りるならば、それはユカタン半島に落ちた隕石もそこのけの天地異変だった。われら沖縄人、よくぞまあ白亜紀の恐竜のように絶滅しきらなかったもんやさあ!/渡るそばから崩れる桟橋のような世界を走りながら、ちっぽけなお頭には収めきれない人の死を目の当たりにした。幸福のひとかけらも知らない子どもが子どものままで事切れた。敗戦のあとも飢えやマラリアに苦しみ、動物のように所有されて、それでも命をとりとめた島民は、こうなったらなにがなんでも生きてやる! と不屈のバイタリティを涵養させた。濡れねずみは雨を恐れない。裸のものは追いはぎを恐れない。飢えと貧苦のあまりに居直ったほとんどの島民が、〝戦果アギヤー〟に名乗りを上げていった。/アメリカの倉庫や基地から物資を奪ってくる。/それが、戦果アギヤーだ。」
 この生活のために米軍の施設から食料や衣類、薬などを盗み出す「戦果アギヤー」の様子から、米兵による数々の暴行事件や、小学校への米軍機墜落事故、アメリカ統治下での不合理な実態に対して住民の不満の高まり正面衝突へと至る「コザ暴動」など、実話も盛り込みながら、戦後に生きた沖縄人の止むにやまれぬ心情を鋭く描いている。

 さらに筆者は、「好きこのんで語りたがるものは、ひとりもいない。/この島の人たちが、胸の奥底に沈めたままにして顧みない出来事である。/だけど語られないからといって、それらが風化して、土地の記憶から消えてゆくことはない。ありったけの財産が一晩でふいになった。親兄弟をいちどきに亡くして、昨日まで見ていた故郷(シマ)の風景が焼きつくされた──われら沖縄人はそういう原体験があるから、ふとしたきっかけでそれまでの常識や価値観がひっくり返るようなこともがあっても、それほど仰天したり、取り乱したりはしないのさ。/あえて言葉にしなくても、沖縄人たちは知っている。朝貢国として中国の冊封体制下にあった琉球王国の御代から、ヤマト世、アメリカ世と支配体制が変わるなかで、そのつどの苦難を〝なんくるないさ〟でしのいできたからこそ、この世の摂理はどんなときでも移り気で、不変のものなんてありはしないと知っている。」と、不屈の沖縄人気質を描いている。

 普天間基地移設に伴う辺野古の海に土砂投入が始まり、それについての県民投票が実施される今、本土に住む私たちは、どれほどの沖縄の人たちの心情を知っているのか、子どもたちが育つ頭上を戦闘機が飛び交う環境がいかなるものか、それを考えさせられる物語である。沖縄を沖縄の問題として見過ごしたくない人には、必読の書籍であるのは間違いない。フィクションの物語であるからこそ、現在まで続いている沖縄問題の本質が浮き彫りに描かれた書籍である。